武田信玄が勝てなかった村上義清
1548年、北信を手中にするために武田信玄(晴信)は村上義清と上田原で激突する(上田原の合戦)が、武田家筆頭家老、甘利虎泰と板垣信方が討死をしてしまう大敗北となった。
同じ轍は踏むまいと、武田家の真田幸隆に村上家の切り崩し工作をさせて(村上家の配下の何人かは武田に下っている)、1550年8月、戸石城攻略のために軍勢を進めた。
武田晴信がこのとき出兵したのは、ちょうど村上氏と下高井郡を治めていた高梨政頼と喧嘩をしている真っ最中で、戸石城を留守にして戻れない状況だったことが大きかったように思う。
8月28日に戸石城の南西2.5キロにある弥吾平という場所に本陣を置いた。翌日より攻撃を開始。 しかしながら、戸石城の守りは固く、城兵の士気も高かったのか、簡単に落城する気配ではなかったようで、力攻めから長囲戦に変更し、内部の切り崩しで戸石城を攻略しようとした。
(ワンポイント)---------------------------------------------------------------------
このころの戸石城のような山城は、現在の大阪城や名古屋城などの天守閣のある荘厳な雰囲気のお城でなく、掘っ立て小屋みたいな板葺きの城であった。しかしながら、そんなお城でも1550年頃はまだまだ鉄砲の配備率や性能も低く、また、大規模な兵糧攻めが出来る体制も整っていない時代だったみたいで、幅の広い堀がなくても食料と水が半年分もあれば十分に守れたのだ。
しかし鉄砲の配備率や性能が上がり、大規模な遠征の出来る体制が出来てくると山城ではダメなっていく。
※戸石城は”桝形城、本城、戸石城、米山城”の総称
同じ轍は踏むまいと、武田家の真田幸隆に村上家の切り崩し工作をさせて(村上家の配下の何人かは武田に下っている)、1550年8月、戸石城攻略のために軍勢を進めた。
武田晴信がこのとき出兵したのは、ちょうど村上氏と下高井郡を治めていた高梨政頼と喧嘩をしている真っ最中で、戸石城を留守にして戻れない状況だったことが大きかったように思う。
8月28日に戸石城の南西2.5キロにある弥吾平という場所に本陣を置いた。翌日より攻撃を開始。 しかしながら、戸石城の守りは固く、城兵の士気も高かったのか、簡単に落城する気配ではなかったようで、力攻めから長囲戦に変更し、内部の切り崩しで戸石城を攻略しようとした。
(ワンポイント)---------------------------------------------------------------------
このころの戸石城のような山城は、現在の大阪城や名古屋城などの天守閣のある荘厳な雰囲気のお城でなく、掘っ立て小屋みたいな板葺きの城であった。しかしながら、そんなお城でも1550年頃はまだまだ鉄砲の配備率や性能も低く、また、大規模な兵糧攻めが出来る体制も整っていない時代だったみたいで、幅の広い堀がなくても食料と水が半年分もあれば十分に守れたのだ。
しかし鉄砲の配備率や性能が上がり、大規模な遠征の出来る体制が出来てくると山城ではダメなっていく。
※戸石城は”桝形城、本城、戸石城、米山城”の総称
村上氏と高梨氏の和睦で形成逆転
戸石城の切り崩しをすすめている最中、事態が急変する。9月23日に村上氏と高梨氏が和睦し、村上勢が戸石城へ、武田軍を追い払うべく引き返してくるという連絡が入った。
この連絡で織田信長のように逃げ帰れば、大火傷はしなかったかもしれないが、上田原の敗戦のリベンジという気持ちも強かったのか、撤退が遅れたものと思える。
村上氏の追撃が間に合い、また城兵も打って出て、1000人近くの兵が討ち取られた。
2度も村上義清に敗れた武田晴信だったが、後、村上氏の近所に住んでいた真田幸隆が義清の留守のときに、戸石城を代わりに守っていた城主を調略し、あっさりと攻略してしまった。
この連絡で織田信長のように逃げ帰れば、大火傷はしなかったかもしれないが、上田原の敗戦のリベンジという気持ちも強かったのか、撤退が遅れたものと思える。
村上氏の追撃が間に合い、また城兵も打って出て、1000人近くの兵が討ち取られた。
2度も村上義清に敗れた武田晴信だったが、後、村上氏の近所に住んでいた真田幸隆が義清の留守のときに、戸石城を代わりに守っていた城主を調略し、あっさりと攻略してしまった。
参考書籍
戦国合戦「超ビジュアル」地図
戦国時代の有名な合戦の様子を、3D立体地図や航空写真を用いて年代順に紹介。古戦場写真も満載で、当時の人々が地形をどのように生かして戦ったのか、リアルにわかる合戦地図。 オンライン書店【ビーケーワン】
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