当時の姉川周辺等々
現在の姉川合戦の起こった周辺は田園風景が広がり、川が血で染まったとされる壮絶な合戦が起こったなんて思えない長閑なところです。
戦国当時、この周辺にこれほどの田んぼがあったかどうか分からないですが、現在の姉川と草野川の間に三田村(現:三田町付近)と野村(現:野村町付近)という村があったようで、この周辺は水の便も良さそうであるし、稲作(湿田)が行われていたと考えられる。(ちなみに三田村邦彦という俳優がこの三田村とゆかりがあるとかないとか・・)
通行は北国脇往還という道(当時、そのような名前はついてない)が通っている。現在の365号線あたりでしょうか。この道が当時、野村町付近で姉川を横断していたかどうかは分かりませんが、合戦はこの付近で織田勢と浅井勢がぶつかり合ったとされています。しかし橋はかかっていなかったでしょう。 合戦が行われた事実から水位も低く渡河出来たのは間違いなさそうですが、当時はまともな堤防があったとは思えないので、仮に合戦時に大雨が降っていれば、姉川で合戦は出来なかったかも知れません。
合戦場周辺は主に平地ですが、湿田、湿地帯が当時多く、野村、三田村から南へ渡河できる場所は、合戦が行われたとされている箇所から考えると2つに限定されていたと思われ、そのことからすると北国脇往還以外の道が姉川を南北に横切るよう通っていたことも間違いなさそうです。ただ史料から迂回攻撃を双方がしたような事実が見られないことから、周辺に三つ以上渡河出来る地点やそれに伴う道はなかったと思います。
⇒姉川周辺の動画
戦国当時、この周辺にこれほどの田んぼがあったかどうか分からないですが、現在の姉川と草野川の間に三田村(現:三田町付近)と野村(現:野村町付近)という村があったようで、この周辺は水の便も良さそうであるし、稲作(湿田)が行われていたと考えられる。(ちなみに三田村邦彦という俳優がこの三田村とゆかりがあるとかないとか・・)
通行は北国脇往還という道(当時、そのような名前はついてない)が通っている。現在の365号線あたりでしょうか。この道が当時、野村町付近で姉川を横断していたかどうかは分かりませんが、合戦はこの付近で織田勢と浅井勢がぶつかり合ったとされています。しかし橋はかかっていなかったでしょう。 合戦が行われた事実から水位も低く渡河出来たのは間違いなさそうですが、当時はまともな堤防があったとは思えないので、仮に合戦時に大雨が降っていれば、姉川で合戦は出来なかったかも知れません。
合戦場周辺は主に平地ですが、湿田、湿地帯が当時多く、野村、三田村から南へ渡河できる場所は、合戦が行われたとされている箇所から考えると2つに限定されていたと思われ、そのことからすると北国脇往還以外の道が姉川を南北に横切るよう通っていたことも間違いなさそうです。ただ史料から迂回攻撃を双方がしたような事実が見られないことから、周辺に三つ以上渡河出来る地点やそれに伴う道はなかったと思います。
⇒姉川周辺の動画
姉川合戦の推移
元亀元年6月27日、横山城を包囲する織田勢、徳川勢を見下ろせる大依山に浅井、朝倉勢が布陣する。
浅井、朝倉勢は信長公記によれば1万3千としている。しかし一方の織田、徳川勢に関しては信長公記に記載がない。徳川勢に加勢を要請していることからして、織田軍が3万以上の大軍であったとは考えにくい。
主な部将は柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、美濃三人衆ぐらいであろうか。このことから考えると織田勢は1万5千〜2万の間ぐらいであると思います。ちなみに徳川勢は岡崎、遠江の守備を差し引いて3千から5千。総勢約2万ぐらいでしょう。
兵数では織田徳川軍が有利であったことは間違いなさそうですが、にもかかわらず浅井朝倉勢はなぜ対陣し一合戦することを決意したのか? 「信長公記」においても、浅井朝倉勢は大依山より撤退したものと織田軍は誤認していたように書かれています。 一つの原因は、三方ヶ原の徳川がそうであったように、放置すること(見捨てる)が出来なかったということでしょう。家臣の結束が揺らぎ、離反する危険があるからです。そして地形も姉川を挟んでおり、かつ渡河点も限定されていると思われるので、それほど大きな損害を出すこともないと踏んだのではと思います。
ところが先述の「信長公記」にあるように、織田軍は浅井朝倉勢が撤退してのでは?と思っていたところに、6月28日未明、姉川対岸に出現します。浅井勢と信長本隊が睨みあう形となり、その後合戦が始まります。このとき織田勢にとって問題は柴田、丹羽、佐久間らの部隊は横山城の包囲に回っいたと考えられることで、緒戦では参加できなかったようです。浅井勢も織田本隊との戦闘とあってなんとか勢いで押そうと善戦します。
一方の朝倉勢は徳川勢より兵数は多かったと考えられますが、突破は困難だったようです。一部徳川の活躍により姉川の合戦は勝利したとする物も見られますが、朝倉勢を三田村口で押さえるのがやっとであったはずです。仮に徳川勢が突破されれば、織田軍は側面を攻撃されることになります。地形的にも、少数の徳川勢が迂回攻撃できる状況であったとは思えません。
浅井勢は緒戦において織田本隊を壊滅させる機会はありましたが、その猶予はおおよそ2〜3時間と考えられます。その時間を越えると、織田の横山城包囲軍(柴田・佐久間・丹羽等)が加わってしまうのです。
結果としては数刻戦闘が続いたとしていることから姉川における合戦は、4時間から6時間続いたと思われ、横山城包囲軍も姉川の戦闘に参加できるようになり、浅井軍は力尽き敗走、三田村口の朝倉軍も撤退することなったのではと思います。そして追撃戦において、名のある武将が討たれたのでしょう。
開戦直前布陣予想図※道は推定
兵数では織田徳川軍が有利であったことは間違いなさそうですが、にもかかわらず浅井朝倉勢はなぜ対陣し一合戦することを決意したのか? 「信長公記」においても、浅井朝倉勢は大依山より撤退したものと織田軍は誤認していたように書かれています。 一つの原因は、三方ヶ原の徳川がそうであったように、放置すること(見捨てる)が出来なかったということでしょう。家臣の結束が揺らぎ、離反する危険があるからです。そして地形も姉川を挟んでおり、かつ渡河点も限定されていると思われるので、それほど大きな損害を出すこともないと踏んだのではと思います。
ところが先述の「信長公記」にあるように、織田軍は浅井朝倉勢が撤退してのでは?と思っていたところに、6月28日未明、姉川対岸に出現します。浅井勢と信長本隊が睨みあう形となり、その後合戦が始まります。このとき織田勢にとって問題は柴田、丹羽、佐久間らの部隊は横山城の包囲に回っいたと考えられることで、緒戦では参加できなかったようです。浅井勢も織田本隊との戦闘とあってなんとか勢いで押そうと善戦します。
一方の朝倉勢は徳川勢より兵数は多かったと考えられますが、突破は困難だったようです。一部徳川の活躍により姉川の合戦は勝利したとする物も見られますが、朝倉勢を三田村口で押さえるのがやっとであったはずです。仮に徳川勢が突破されれば、織田軍は側面を攻撃されることになります。地形的にも、少数の徳川勢が迂回攻撃できる状況であったとは思えません。
浅井勢は緒戦において織田本隊を壊滅させる機会はありましたが、その猶予はおおよそ2〜3時間と考えられます。その時間を越えると、織田の横山城包囲軍(柴田・佐久間・丹羽等)が加わってしまうのです。
結果としては数刻戦闘が続いたとしていることから姉川における合戦は、4時間から6時間続いたと思われ、横山城包囲軍も姉川の戦闘に参加できるようになり、浅井軍は力尽き敗走、三田村口の朝倉軍も撤退することなったのではと思います。そして追撃戦において、名のある武将が討たれたのでしょう。
開戦直前布陣予想図※道は推定
勝敗は?
姉川の合戦は総合的に見れば織田勢の勝利です。浅井勢の後詰を追い払い横山城を奪うことが出来ています。
しかし浅井、朝倉勢に大きな被害があったとは思いにくく、その理由はその後すぐに合戦をして活発であり、志賀の陣において織田勢を破っています。激戦にはなったものと思いますが、双方、それほど多くの兵を失う(数千規模)合戦ではなかった?でしょう。
しかし浅井、朝倉勢に大きな被害があったとは思いにくく、その理由はその後すぐに合戦をして活発であり、志賀の陣において織田勢を破っています。激戦にはなったものと思いますが、双方、それほど多くの兵を失う(数千規模)合戦ではなかった?でしょう。
参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |