第一次高天神城攻防戦 天正2年

 遠江の東南に位置して掛川城のほぼ南にある高天神城は、駿河より侵攻する場合は拠点ともなる城で、今川氏が築城したものである。1568年に徳川家康が遠州侵攻してから徳川のものとなっていた。
武田信玄と徳川家康の関係が悪化してくると、元亀2年に信玄は高天神城を攻略しようとするものの、体調がすぐれず退却することになり、高天神城攻略を内藤昌豊に任せるものの失敗に終わっている。
信玄が1572年に遠州、三河へ侵攻し、手中にしようとしたが、高天神城の攻略には向かっていない。 おそらく高天神城だけでなく掛川城という堅城(落城させるには高天神城より時間かかるかも?)もあることから、遠江の東は防備が固いということで、犬居城より中央突破で攻略しようとしたのだろう。

 信玄が攻略に失敗(無理をしなかった?)した高天神城であったが、代理当主となった武田勝頼は領土をさらに拡大すべく、東美濃の攻略し、そして高天神城の攻略に向かった。
天正2年の5月に約2万の兵を引き連れて、12日に高天神城を包囲した。篭城軍は1千程度と思われる。
 大軍による包囲でさすがに自力では対応できないということで、城将の小笠原長忠は徳川家康に援軍を求めた。 信玄のときは、内藤隊(山県隊がいたとも言われている)のみの攻撃だったから跳ね返すことが出来たが、2万の大軍でだと力攻めされたら落城は時間の問題である。
 しかしながら2万の大軍では家康でも助けることが出来ないため、織田信長に援軍を求めた。この時分の家康の最大動員兵力は三方ヶ原の合戦(1572)の折よりも若干少なかったことが予想される。東三河はほぼ回復していたものの遠江北部が武田に奪われたままだったことを考えると約6千から7千程度か。

高天神城は決して標高の高い山に築かれた山城ではないものの、二つの山頂を利用し、本丸と西の丸があり、またかなり急峻な崖が周囲を覆っていて、大軍であっても攻め込むことが難しい城であった。
まず武田勝頼は降伏を促すが、小笠原は応じず家康の援軍を待っていた。

小笠原も今か今かと援軍を待って、使者も何度か送るものの、織田の援軍が到着しなかったので動こうにも動けなかった。

 勝頼は小笠原の降伏を待っていたが、6月に入って力攻めを開始する。高天神城は先に書いたとおりの堅城であるものの、西の丸の北側が弱点で、急斜も若干なだらかであるからココから攻め込み西の丸を攻略。6月17日に勝頼の降伏を受け入れた。

 ちなみに信長は6月14日に三河吉田城に到着していたものの、開城の知らせを聞いて撤退している。

高天神城の縄張り

第二次高天神城攻防戦 天正9年

 長篠の合戦(1575)において敗北を喫した武田勝頼は、なんとか体制を建て直して攻勢に転じようとするものの、後手後手に回ってしまい、御館の乱(1577年)の結果で運悪く北条を敵に回してしまい二正面作戦を余儀なくされてしまった。
 一方家康は長篠の合戦の後すぐ、武田に奪われた遠州の領地を着々を攻略していったが、堅城の高天神城はなかなか攻略出来なかった。 そこで家康は、高天神城攻略のための拠点を馬伏塚城を高天神城の西約9キロの地点に築城し、天正6年には横須賀城を西南5キロの地点に築城し、天正8年には高天神城包囲のために上図のように砦を築いて、補給路を遮断した。
 外交においても家康は北条と同盟を組むことに成功し、北条が武田の背後を脅かすことになると、徳川軍は天正9年に高天神城を包囲。このころ篭城側は補給路を断たれて戦意、戦力ともに低下しており、落城は時間の問題となっていた。
 勝頼が北条に釘付けされてることをいいことに、徳川軍は篭城側の降伏を認めず、ついに3月22日玉砕のための突撃を敢行し、高天神城は落城した。


参考書籍

百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。

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関連サイト

戦国時代の合戦データベース
姉妹サイト。だいぶネタつきましたが(笑)、日本各地の戦国合戦について簡単に紹介しています。
氏別合戦表
武田氏
桑原城の合戦より〜田野の合戦
織田氏
小豆坂の合戦より〜


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