桶狭間合戦3DCG布陣図にて、以下の分と違う桶狭間合戦を紹介しています。今川軍は退却中だった?のかも知れません。
予想外の本陣突撃
桶狭間の戦いに関しては最近、迂回奇襲説から正面からの突撃説に変わろうとしている。
これは『信長公記』を元にしていると言っていいと思う。桶狭間の奇襲の新説に関するTVや書籍などを読んでみると
迂回攻撃はかなり効率も悪いもので、実際には不可能としている。
正面奇襲説(または正面突撃説)に関してはWeb上にたくさん書いている人がいますので、
yahoo,googleで検索をしてみて下さい。
肝心なのは、今川義元にとって信長が本陣に直接攻撃を仕掛けてきたのは予想外だったことです。 今川には2万もの軍勢がいたのに、針の糸を通すようなタイミングで織田軍は攻めてきた。
織田軍にしても長く中島砦にいても、周りを囲まれる危険が大きく長居は出来なかった筈で、義元が桶狭間山に 確実に布陣したのを知った信長は善照寺砦ですでに中島砦にいる敗残兵(丸根、鷲津両砦)を引き連れてすぐに 攻めることを考えていたのだろう。
それにしても織田信長はだいたんで劇的である・・。
なぜここまで大胆になれたか、ちょっと考えてみたが今川義元は上洛目的とか尾張平定を目指したとか言われているが、 単に大高城、鳴海城の開放(後詰)だけが目的で、信長もそれを承知していたとすれば、この大胆な行動も分からないことはない。仮に義元を討ち取れなくても、さっさと引き上げ本城に篭って後々奪い返せばいいと考えていたかも知れない。ただ黙ってみているだけでは面子もあるし、地侍もどんどん今川方になってしまうだろうし。
その点は三方ヶ原の合戦の徳川家康に似ていると言えるかも知れない。
話を本陣突撃に戻す。なんとか中島砦を攻略される前に本陣に突撃。信長はなんとか第一段階はクリア。しかし、まだ問題は残る・・・。
肝心なのは、今川義元にとって信長が本陣に直接攻撃を仕掛けてきたのは予想外だったことです。 今川には2万もの軍勢がいたのに、針の糸を通すようなタイミングで織田軍は攻めてきた。
織田軍にしても長く中島砦にいても、周りを囲まれる危険が大きく長居は出来なかった筈で、義元が桶狭間山に 確実に布陣したのを知った信長は善照寺砦ですでに中島砦にいる敗残兵(丸根、鷲津両砦)を引き連れてすぐに 攻めることを考えていたのだろう。
それにしても織田信長はだいたんで劇的である・・。
なぜここまで大胆になれたか、ちょっと考えてみたが今川義元は上洛目的とか尾張平定を目指したとか言われているが、 単に大高城、鳴海城の開放(後詰)だけが目的で、信長もそれを承知していたとすれば、この大胆な行動も分からないことはない。仮に義元を討ち取れなくても、さっさと引き上げ本城に篭って後々奪い返せばいいと考えていたかも知れない。ただ黙ってみているだけでは面子もあるし、地侍もどんどん今川方になってしまうだろうし。
その点は三方ヶ原の合戦の徳川家康に似ていると言えるかも知れない。
話を本陣突撃に戻す。なんとか中島砦を攻略される前に本陣に突撃。信長はなんとか第一段階はクリア。しかし、まだ問題は残る・・・。
今川本陣には約5000の兵が
現在ではかなり研究がすすんで、今川本体は小高い丘の上(桶狭間山)に本陣を構えていたとしている。
おそらくその方が正しいだろう。
でもそうすると約5000人近くの今川本隊を、小高い山を駆け上って攻め崩すことが本当にできるのか?という 素朴な疑問が出てくる。
もちろん、本隊5000とは言え実質的な戦闘要員は1000人から1500人程度だったとは思うが、仮に今川本隊が 織田突撃軍よりも少数であったと仮にしても難しいとさえ思える。
しかしながら織田軍は撃破に成功している。なぜ成功したかは他の先生方の意見を参考にすると本陣攻撃を知った今川軍が桶狭間山から脱出を図ろうとして捕捉されたということだ。
この意見もありえると思う。びっくりして逃げることになって、迎撃体勢もとれず討ち取られた可能性もある。
でも織田軍が本陣前衛部隊と戦っている間、本陣に留まっていた可能性も否定は出来ない。なんせ、5000近く人はいた訳だから、返り討ちにしてくれると思っていた可能性はあるし、早馬を走らせて近くの部隊への連絡もしていた可能性はある。状況は違うが、『川中島の合戦』で武田軍は本陣まで上杉軍に攻め込まれても”動かざること山の如し”だった。
問題は今川軍本陣の戦闘要員がなぜあっさりと?織田軍突撃隊に敗れたかであると思うが、このころはまだまだ鉄砲の配備率が低かったということがあるんじゃなかろうか?ひょっとすると本隊には鉄砲は配備していなかったのかも知れない。鉄砲は迎撃にはうってつけの武器である。また本陣戦闘要員が織田軍の突撃箇所に集中して配置はしていなかったようにも考えられる。まぁ元々本陣が戦うことは前提にしていない筈だとは思うし、元々後方支援の役割を果たす部隊であった。
そしておそらく信長軍は鉄砲部隊を引き連れてきたと思う。もちろん数はあっても100丁程度だと思うが、このころ(1560年)は、2,30丁でも脅威であったと思う。今でいうならレーザーガンみたいな感覚だろう。(当日豪雨(通り雨)だったとしているから、晴れ間がでてからのこと)
そして今川にとっても予想外だったのは、織田軍が2000から3000の兵を引き連れていたということだろう。織田軍が本隊に向かって突撃してきたことは、桶狭間山から分かっていたと思うが、せいぜい1000足らずと思っていたのではなかろうか?
結果、織田軍は一気に前衛部隊を突破し、本陣に向かって突進し桶狭間山は大混乱。救援部隊も間に合わず、逃げ遅れて義元は首を取られてしまった。そうは考えられないだろうか??
桶狭間、信長突撃直前予想布陣。
でもそうすると約5000人近くの今川本隊を、小高い山を駆け上って攻め崩すことが本当にできるのか?という 素朴な疑問が出てくる。
もちろん、本隊5000とは言え実質的な戦闘要員は1000人から1500人程度だったとは思うが、仮に今川本隊が 織田突撃軍よりも少数であったと仮にしても難しいとさえ思える。
しかしながら織田軍は撃破に成功している。なぜ成功したかは他の先生方の意見を参考にすると本陣攻撃を知った今川軍が桶狭間山から脱出を図ろうとして捕捉されたということだ。
この意見もありえると思う。びっくりして逃げることになって、迎撃体勢もとれず討ち取られた可能性もある。
でも織田軍が本陣前衛部隊と戦っている間、本陣に留まっていた可能性も否定は出来ない。なんせ、5000近く人はいた訳だから、返り討ちにしてくれると思っていた可能性はあるし、早馬を走らせて近くの部隊への連絡もしていた可能性はある。状況は違うが、『川中島の合戦』で武田軍は本陣まで上杉軍に攻め込まれても”動かざること山の如し”だった。
問題は今川軍本陣の戦闘要員がなぜあっさりと?織田軍突撃隊に敗れたかであると思うが、このころはまだまだ鉄砲の配備率が低かったということがあるんじゃなかろうか?ひょっとすると本隊には鉄砲は配備していなかったのかも知れない。鉄砲は迎撃にはうってつけの武器である。また本陣戦闘要員が織田軍の突撃箇所に集中して配置はしていなかったようにも考えられる。まぁ元々本陣が戦うことは前提にしていない筈だとは思うし、元々後方支援の役割を果たす部隊であった。
そしておそらく信長軍は鉄砲部隊を引き連れてきたと思う。もちろん数はあっても100丁程度だと思うが、このころ(1560年)は、2,30丁でも脅威であったと思う。今でいうならレーザーガンみたいな感覚だろう。(当日豪雨(通り雨)だったとしているから、晴れ間がでてからのこと)
そして今川にとっても予想外だったのは、織田軍が2000から3000の兵を引き連れていたということだろう。織田軍が本隊に向かって突撃してきたことは、桶狭間山から分かっていたと思うが、せいぜい1000足らずと思っていたのではなかろうか?
結果、織田軍は一気に前衛部隊を突破し、本陣に向かって突進し桶狭間山は大混乱。救援部隊も間に合わず、逃げ遅れて義元は首を取られてしまった。そうは考えられないだろうか??
桶狭間、信長突撃直前予想布陣。
参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |