屏風絵をよく見ると
下は屏風絵の一部であるが、よく見てみると、戦っている兵士ばかりではない。
旗を持つものや馬を引くものも描かれている。また、楽器をもつ雑兵も描かれていることもある。
楽器をもつ雑兵は味方を鼓舞したりしたのだろう。
今でいうなら『ロッキー』のBGM、『地獄の黙示録』でいうなら
『ワルキューレ』といったところか。
屏風絵はかなり誇張されている部分(ある程度身分の高い者を選んで)もあって、描かれない雑兵達はたくさんいる訳だが、実際はどうだったのだろう?
屏風絵からも若干分かるが、まずお偉いさんしか馬に乗ることはなかった。(良い鎧、甲をつけている?)そのお偉いさんには部下として戦闘要員となる足軽が何人かいる。そして、戦闘要員ではない、旗持ちや、荷物(食料等)を運ぶ者、、武器を持つ者(槍持ち等々)。
大名によって差はあるが、約100石を殿様から与えられた武士だと、まずその武士が騎馬に乗って、足軽が2人程度、他の非戦闘要員(旗持ち、荷物運び等)が5人程度だったようだ。
これらのことは現存する当時の資料からも分かっている。
そんな下級武士と高給取りの上級武士が集まって、一つの部隊が出来上がる。その部隊の中には、槍、弓、鉄砲を持つ者、そして非戦闘要員がいたのだ。ちなみに足軽が持つ武器はたいてい自前のものだった。
そして、たくさんの部隊が集まって大軍勢となるのである。
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※兵農分離
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かった。 税として兵役を課しのだが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになった。
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屏風絵はかなり誇張されている部分(ある程度身分の高い者を選んで)もあって、描かれない雑兵達はたくさんいる訳だが、実際はどうだったのだろう?
屏風絵からも若干分かるが、まずお偉いさんしか馬に乗ることはなかった。(良い鎧、甲をつけている?)そのお偉いさんには部下として戦闘要員となる足軽が何人かいる。そして、戦闘要員ではない、旗持ちや、荷物(食料等)を運ぶ者、、武器を持つ者(槍持ち等々)。
大名によって差はあるが、約100石を殿様から与えられた武士だと、まずその武士が騎馬に乗って、足軽が2人程度、他の非戦闘要員(旗持ち、荷物運び等)が5人程度だったようだ。
これらのことは現存する当時の資料からも分かっている。
そんな下級武士と高給取りの上級武士が集まって、一つの部隊が出来上がる。その部隊の中には、槍、弓、鉄砲を持つ者、そして非戦闘要員がいたのだ。ちなみに足軽が持つ武器はたいてい自前のものだった。
そして、たくさんの部隊が集まって大軍勢となるのである。
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※兵農分離
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かった。 税として兵役を課しのだが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになった。
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武田騎馬軍団は存在しなかった??
上記のことから、もうお分かりだと思うが、武田騎馬軍団は存在しなかった。TVや映画などでは勇猛な騎馬軍団の突進を見ることがあるが、あり得なかったのだ。
だから、川中島の戦いの屏風絵を見ても、どこにも騎馬軍団はいないし、それは長篠の戦いの屏風絵でも同じである。また当時の資料を見ても、武田軍を上杉軍や織田軍などと比較しても、騎馬武者と全軍の比率は大差はない。
さらにいうと、当時はサラブレッドがいない・・・。一回り小さい馬で、道産子のような馬であった。 競走馬は約時速60キロぐらいは出るらしいが、戦国当時の馬はそんなスピードは出なかった。さらに重い甲冑を身に着けているし、平坦な地形ばかりでもない。とても、TVのような騎馬の突撃は無理な状況であったのだ。
なのでたいてい騎馬武者が戦う場合は、馬を下りて戦ったのである。屏風絵を見ると馬を下りて、下人に馬を引かせているところも描かれていたりもする。
(上屏風絵の右上あたり)
ただし輸送の役にはたったはずで、遠くまで行軍する場合は馬の多さで現地への到着速度は変わったことだろう。
だから、川中島の戦いの屏風絵を見ても、どこにも騎馬軍団はいないし、それは長篠の戦いの屏風絵でも同じである。また当時の資料を見ても、武田軍を上杉軍や織田軍などと比較しても、騎馬武者と全軍の比率は大差はない。
さらにいうと、当時はサラブレッドがいない・・・。一回り小さい馬で、道産子のような馬であった。 競走馬は約時速60キロぐらいは出るらしいが、戦国当時の馬はそんなスピードは出なかった。さらに重い甲冑を身に着けているし、平坦な地形ばかりでもない。とても、TVのような騎馬の突撃は無理な状況であったのだ。
なのでたいてい騎馬武者が戦う場合は、馬を下りて戦ったのである。屏風絵を見ると馬を下りて、下人に馬を引かせているところも描かれていたりもする。
(上屏風絵の右上あたり)
ただし輸送の役にはたったはずで、遠くまで行軍する場合は馬の多さで現地への到着速度は変わったことだろう。
武田騎馬隊はどう戦った?
上記『武田騎馬軍団は存在しなかった??』にて、騎馬武者は降りて戦ったとしましたが、少し付け加えたい。
下の図は川中島合戦布陣図(岩国歴史美術館)における山県隊の部隊構成を表したものです。前列に鉄砲、弓隊、次に長柄隊、次に槍隊、侍大将山県昌景と近習衆(馬廻・旗本)後方に騎馬隊となってます。
このことから合戦は鉄砲・弓の遠距離攻撃からはじまり、長柄による攻撃、敵味方がある程度入り乱れると槍隊が押し出て、そしてタイミングを見計らって、騎馬隊が攻撃を加えるといった感じだったかと思われます。
騎馬武者はある程度の身分の者がなったと思えるので、この部隊構成の理想的な騎馬隊投入は槍隊が交戦中に敵に敗色が見え始めたときで、騎馬武者隊が怒涛のごとく攻めそこで手柄首を上げたのでしょう。
当然ながら19世紀の西洋のような騎馬のみの編成ではなく、騎馬隊といえども徒歩武者、馬取も数人付き添っているので、突撃とはいうもののママチャリの全力疾走程度です(笑)しかしながら2,30騎単位の騎馬武者が槍や刀を振り回し突撃をしてくると結構脅威だったはずです。この突撃の際には馬上にて戦ったと思われますが、敵中にて乱戦の場合は下馬して(長時間の疾駆は出来ない)戦ったのだと思います。
川中島合戦時(1561?)の山県隊の構成。
下の図は川中島合戦布陣図(岩国歴史美術館)における山県隊の部隊構成を表したものです。前列に鉄砲、弓隊、次に長柄隊、次に槍隊、侍大将山県昌景と近習衆(馬廻・旗本)後方に騎馬隊となってます。
このことから合戦は鉄砲・弓の遠距離攻撃からはじまり、長柄による攻撃、敵味方がある程度入り乱れると槍隊が押し出て、そしてタイミングを見計らって、騎馬隊が攻撃を加えるといった感じだったかと思われます。
騎馬武者はある程度の身分の者がなったと思えるので、この部隊構成の理想的な騎馬隊投入は槍隊が交戦中に敵に敗色が見え始めたときで、騎馬武者隊が怒涛のごとく攻めそこで手柄首を上げたのでしょう。
当然ながら19世紀の西洋のような騎馬のみの編成ではなく、騎馬隊といえども徒歩武者、馬取も数人付き添っているので、突撃とはいうもののママチャリの全力疾走程度です(笑)しかしながら2,30騎単位の騎馬武者が槍や刀を振り回し突撃をしてくると結構脅威だったはずです。この突撃の際には馬上にて戦ったと思われますが、敵中にて乱戦の場合は下馬して(長時間の疾駆は出来ない)戦ったのだと思います。
川中島合戦時(1561?)の山県隊の構成。
参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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┗花のネットショッピング珍遊記
⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |