通説の行軍路の疑問、問題

 長篠の合戦の連吾川流域における本戦においては『長篠の合戦 〜1575年 天正3年』に紹介したが、今回は酒井忠次等東三河衆による鳶ノ巣攻撃を検証してみたい。
よく見る鳶ノ巣奇襲は背後の山から襲撃しているのだが、その行軍路を見ると現在の常寒山、若しくは船着山より背後へ回っている。下の図は二つ行軍路を描いているが、もし仮に山中を通ってということなら、最短の常寒山を直接登り、尾根づたいに進軍か?と思われる。
 船着山・常寒山の登山に関するページを拝見すると登山口から下山まで休憩をはさみ約4,5時間のようである。もちろんこの時間は少数(10名以内)の日中である。
 通説は酒井隊と金森衆のあわせて約四千名が家康・信長の本陣近くより夜8時頃から鳶ノ巣の背後に回るべく行軍を開始し、翌朝8時頃奇襲をしたとしている。約12時間である。
仮に家康本陣を出発点とした場合、距離としては約12,3キロであるが、問題は四千人の大部隊が夜中の山中を行軍するということだ。
 以下のリンク先には現在の船着山・常寒山の山道の写真が掲載されている。戦国当時今程度踏み固められた道であったか分からないが、すれ違うことも難しい道だったと思われる。となると四千人が1メートル間隔で歩いたとするとその距離は4キロにも及ぶ。当然、現実には武器も携え、荷物を持つ部隊も居たであろうから1メートル間隔ということはない。
 このことはつまり大部隊が行軍、そしてある地点に集結をするというのは想像以上に時間がかかるということなのだ。
 しかも夜中の山道である。残念ながら船着山・常寒山を管理人は登った事はないが、山登りは結構な体力を要するし、ヘビや猪が現在でもいるらしく、当時は足場も悪いはずで危険だ。夜中であれば、かなり地理に詳しいものが先導し慎重さが必要になる。下手をすれば迷うこともある。山中、兵の誰かが転げ落ちたり等のトラブルが起これば、進軍が止まる可能性もある。
以上のことを考えて、通説のように山道を通り出発点の家康本陣から鳶ノ巣裏手に四千名が集結するには、順調行軍できても、10時間は要するのでは?と思われる。
山登りを含め夜通し行軍した軍隊が、いざ合戦となった際にまともに戦えるのか?
 もう一つ問題は兵の管理・統率ができるのかということ。当時の足軽・雑兵は素行が悪い。人間ばれなければ案外悪いこと平気にやるもので、2チャンネルの書き込みなどは良い例かもしれない。 当時は味方の兵糧をドサクサ紛れに奪う輩、逃亡するものもいたらしい。この点の問題はどうなのだろうか。

 このように夜中に山を行軍するというのは問題が多い。しかし通説にしたがえば、時間の関係上、夜中に山中を行軍させる必要がある。
 果たして本当に通説通りだったのだろうか?ちなみにこの通説の夜の山中行軍の可能性・安全性を高めるには鳶ノ巣山裏手付近まで街道並みの道路(幅2、3メートル)が存在していたことが証明される必要があると思う。しかし大きな村落も付近にない地に船着山・常寒山の尾根伝いにそんな道路があったとは到底思えない。まぁ普通に考えれば、あの地の場合、まともな道は尾根ではなく麓に沿う形で配置することになるはずですが・・

以下ページにて現在の船着山・常寒山がどんな感じかご覧いただけます。
船着山・常寒山
舟着山、常寒山周遊T
舟着山、常寒山登山写真


通説の鳶ノ巣奇襲

武田軍長篠守備隊

 一方、武田の長篠城監視に残された部隊はどうだったのだろう。武田の監視隊の配置に関しては鳶ノ巣砦、及び周辺の砦に兵が配置されたのは間違いなさそうであるが、長篠城北の大通寺付近に兵を配置している本もあれば、wikiには書かれていなかったり、若干曖昧な部分がある。おそらくは史料がないのだろう。
 ただ常識的に考えれば四方より包囲して威圧、監視をしていたと思われる。その兵総数は約1500から2000程度。少なくて1000人程度と推察します。
 長篠城より数十メール〜百数十メートル離れて取り囲み、城兵が討って出ると思われる北側大通寺方面に万が一の場合は備えられる体勢はとっていたでしょう。
 ここで鳶ノ巣砦群に武田の兵がどれだけいたのか?と考えた場合、管理人は数十名程度であったと思ってます。砦の規模が数百も収容できたのかという問題もありますが、仮にその規模があり、兵が篭っていても大きな威圧にはならないと思うからです。鉄砲、弓も鳶ノ巣からは長篠城に届く距離ではありません。
多くの兵は宇連川沿い別所街道に展開していたと思います。このことから鳶ノ巣砦群は長篠城、及び街道を監視するのが主な役目であり、その砦で防衛戦をすることは、ほとんど想定しておらず、おおがかりな防衛設備は整えてはいなかったものと思います。一応空堀や土塁は調査で見つかったとされているが、それほどの規模の大きなものではない。とにもかくにも、鳶ノ巣砦群には数百の兵が篭っていたのではなく、数十名程度の兵が監視のために配置されたとするのが自然な気がします。ただ武田(河窪)信実はその砦にいたかも知れません。




管理人が考える現実的鳶ノ巣奇襲

 夜中の山中行軍を伴った翌朝の鳶ノ巣攻撃は、以上に書いたようにその困難さから現実的には思えず机上の空論という気がする。ではどのような攻撃が現実的なのか。
 一番分かりやすいのは下の図に示した別所街道を東に直進し、鳶ノ巣を急襲するコース。このコースを夜陰に紛れ行軍するのは比較的難なくたどり着くことが可能と思われる。時間的に十分な余裕があり、舟着山付近で休息をとった後、行動を開始することが可能だ。またこのような街道であれば、馬、小荷駄についても移動に問題はない。
 もう一つは舟着山あたりから常寒山を迂回し金指街道に出るコース。これは意表をつく形で攻撃することが出来る。また二手に分かれ、挟撃すればより効果的かもしれない。ただし問題点は移動距離が15キロ近くになることと、当時、そのような迂回ができる道があったかどうかである。もちろん15キロ近くであっても山中行軍と比較すれば危険度も低く疲労度も少ない。
 信頼性のある史料にて明確に鳶ノ巣奇襲がどのように行われたか書かれたものが存在しないことから、憶測するしかないが、可能性が高いのは以上のパターンであると思える。
一つ目の別所街道東進パターンの場合は、別所街道を東に夜間行軍を開始し、舟着山あたりで休息後、日の出(この時期だと朝5時頃か)から行動し、一部の部隊(数百程度)を鳶ノ巣背後に回らせて朝8時頃から攻撃。武田軍の鳶ノ巣砦群の兵の多くは街道沿いに長篠城を睨む形で配備されたとするのが自然であり、山の砦に多くの兵が駐屯し守備を固めていたとは考えにくい。山の麓付近で乱戦となったと思われる。
問題点はそのような形で攻撃したとされる史料がないこと。また然程意表をつく攻撃とは思えないので、長篠城到達まで時間がかかる可能性が高いということだ。
 二つ目は金指街道に出るパターンである。
 ちなみに『信長公記』には「のりもと川(豊川)をうちこえ、南の深山(船着山・常寒山付近を指すと思われる)を廻り、長篠の上、鳶ノ巣山へ、」という一文があり、舟着山あたりから常寒山を迂回し金指街道に出て東から攻撃したという可能性も捨てられない。これは先述のとおり意表をつくもので、その方面からの敵襲は武田軍にとって想定外であったと思う。さらに長篠城付近から別所街道に渡る橋は金指街道と別所街道が交差する地点の近くであったと思われるし、この地点(鳶の巣砦群東側:姥ヶ懐砦・君ヶ伏所砦)を一気に押さえるのは長篠城救出にあたってかなり重要であり、1つ目のパターンよりも不意をつき、より効果的と思える。



なぜ鳶ノ巣を狙ったのか?

 当たり前だろうと、突っ込まれるかも知れませんが(笑)・・・。長篠城を開放する場合、包囲の一角を崩す必要がある。史実では鳶ノ巣の攻略をしたが、他方面からの進入はできなかったのか?  仮に長篠城北側に出ようとする場合、考えられるのは北の伊那街道から南下することである。このためには現在の北、御岳山を迂回して回り込む必要がある。長篠の北側は標高の高い山々があり、この山中を突破することは半日では不可能であろう。また主要街道以外にまともな道が存在していたとも思えず、さらに武田の支配下にある領地に侵入する必要がある。これらのことから北側より侵入することは出来ない。
 では長篠城南側の有海はどうか?史実の酒井隊は南より回りこんで鳶ノ巣を攻撃しているが、現在の有海へ直接攻撃はしなかったのだろうか?最初にこの付近の武田軍を掃討すれば、長篠城はほぼ開放されるはずであるし、鳶ノ巣よりも制圧することは簡単であったはずだ。
しかしそう出来なかった原因はその付近の豊川に橋が架かっておらず通行不能であったということだろう。もし仮にこの周辺の豊川に幾つか橋が架かっていたなら容易に背後に回りこめたはずであるが、そうしたことは起きなかった。
 信長公記には志多羅(設楽)の郷という地名が出てくるが、設楽氏が支配していたのは、連吾川の西側であったと言われており、本合戦の舞台となった場所(連吾川周辺)が開発されるのは江戸時代に入った辺りという。つまり連吾川より東側全体(長篠城豊川まで)は未開拓の地(あるみ原?)で橋をいくつも架けたり道路をいくつも整備する必要性がなかったと思える。初期段階では長篠南側有海に出ようにも出られなかったと見るべきだろう。
 こうした事情から攻めかかれる箇所は鳶ノ巣に限定されたのだろう。逆に言えば武田軍は要所を押さえていたということになる。鳶ノ巣山、特に別所街道沿いの武田軍を掃討しなければ、酒井隊は長篠城に辿り付く事はできなかったのだ。


参考書籍

百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。

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関連サイト

戦国時代の合戦データベース
姉妹サイト。だいぶネタつきましたが(笑)、日本各地の戦国合戦について簡単に紹介しています。
氏別合戦表
武田氏
桑原城の合戦より〜田野の合戦
織田氏
小豆坂の合戦より〜


みんなで作る戦国マップ

戦国合戦マップ
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動画でお城、古戦場

当サイトで撮影したお城、古戦場を動画で紹介。Youtube版。