信玄が信濃で費やした時間
信玄は信濃国で多くの合戦をしている。有名な川中島の合戦も信濃国でのことだ。家督を相続し1542年より信濃攻略は始まり、5度目の川中島の合戦が1564年で20年以上信濃へ出兵している。信玄は人生の大半を信州攻略に費やしたといっても過言ではない。そして仮に信玄が天下を目指していたのであれば時間をかけすぎたと思える。
ちなみに1564年頃から死亡するまでの1573年のうちに、信玄は西上野、駿河、遠江山間部、三河一部を勢力化としている。信州に手間取ることがなければ、徳川を傘下に置くことが出来たかも知れない。
なぜ信州に時間がかかってしまったのかを管理人なりの考えを書きながら、信玄の信濃攻略を紹介していきます。
ちなみに1564年頃から死亡するまでの1573年のうちに、信玄は西上野、駿河、遠江山間部、三河一部を勢力化としている。信州に手間取ることがなければ、徳川を傘下に置くことが出来たかも知れない。
なぜ信州に時間がかかってしまったのかを管理人なりの考えを書きながら、信玄の信濃攻略を紹介していきます。
なぜ諏訪へ侵攻したのか?
1541年、甲斐国において武田家当主、信虎が家臣団によって追放され嫡男の晴信が当主となった。この政変の1年後、武田は再度、信濃へ侵攻することとなる。
信虎は佐久、小県(下の地図、内山城、志賀城方面)へ侵攻し成果をあげたが、信虎失脚後、佐久、小県の国人達は武田から離れることなった。信濃攻略は振り出しとなったのだが、晴信が当主となり諏訪を攻撃することなる。この路線変更はなぜなのか?
ちなみに信虎は1540年に佐久、小県を攻めて勝利し、佐久は武田の支配下となったが、その間約1年程度である。諏訪氏とともに小県を攻め勝利した後、信虎は追放され(1541年)、佐久・小県は武田を離れることになったのだ。
なぜもう一度佐久へ侵攻しなかったのか?そしてなぜ諏訪へ侵攻したのか?仮に諏訪氏と同盟関係が続いていたなら、佐久に戦力集中ができたはずなのだ。また関東管領山内上杉氏の影響を信濃から排除するなら佐久への攻略はかかせなかったはずである。
『神使御頭之日記』において諏訪氏が関東管領山内上杉氏と通じて盟約違反をしたことが諏訪氏侵攻の理由とも言われる。しかしそれで諏訪に侵攻したのは少し拙劣な気もする。諏訪氏と山内上杉氏がどこまで密約をしていたか知る術がないのではっきりと言えないが、諏訪氏が同盟を破棄し上杉と共同で甲斐に攻めることとなっていたのなら、機先を制するという意味で諏訪への侵攻はアリかも知れない。
しかしながらそういった状況があったとは思いづらく、少なくとも諏訪氏が武田に刃向かえる戦力はなかったはずで、諏訪へ侵攻した武田軍が二千騎(高遠軍と合わせてかどうかは不明)であるのに対し、諏訪勢は二百騎に満たない寡兵であったことから隣国の武田に弓を引くことは自らの首を絞めることにしかならないからである。諏訪氏が諏訪を統治するには後ろ盾が必要だったと思われるのだ。高遠氏とこのとき良い関係を築けていたなら武田から離れることもありえるのだが、諏訪侵攻へは高遠氏も加わっていることから関係はかなり悪化していたのであろう。
さてなぜ家督を相続した晴信が諏訪侵攻であるが、一番は武田にとって、すぐに大きな利益となるからということが理由であると思う。諏訪は交通の要衝でもある。佐久を攻めるよりも経済的メリットがあったはずだ。ちなみに信虎も国内の乱を鎮めるとまず諏訪へ侵攻している。
諏訪への侵攻は高遠氏と共同で行われ、あっけなく諏訪は武田と高遠氏のものとなったのだが、やはり管理人としては信州全域を早く統一するということを考えると佐久の制圧をまず優先すべきであったと思う。 諏訪方面から甲斐への敵侵入の抑えとして諏訪氏を可能な限り利用すべきであった。
ただし当時そうできないなんらかの事情はあったのかも知れない。1542年という年は飢饉があり、早急に容易く利益になることが必要だったとも考えられなくはない。
ただ付け加えておきたいのは、諏訪への侵攻を決定したのはおそらく晴信ではなく、有力家臣団によるものだということである。板垣信方、甘利虎泰、つまり晴信を当主にした重臣達が諏訪攻めを決定したはずだ。
ともあれ諏訪を取った武田であるが、次に侵攻するのが、信虎失脚直後に離反した佐久(下地図:内山城、志賀城辺り)となる。
信虎は佐久、小県(下の地図、内山城、志賀城方面)へ侵攻し成果をあげたが、信虎失脚後、佐久、小県の国人達は武田から離れることなった。信濃攻略は振り出しとなったのだが、晴信が当主となり諏訪を攻撃することなる。この路線変更はなぜなのか?
ちなみに信虎は1540年に佐久、小県を攻めて勝利し、佐久は武田の支配下となったが、その間約1年程度である。諏訪氏とともに小県を攻め勝利した後、信虎は追放され(1541年)、佐久・小県は武田を離れることになったのだ。
なぜもう一度佐久へ侵攻しなかったのか?そしてなぜ諏訪へ侵攻したのか?仮に諏訪氏と同盟関係が続いていたなら、佐久に戦力集中ができたはずなのだ。また関東管領山内上杉氏の影響を信濃から排除するなら佐久への攻略はかかせなかったはずである。
『神使御頭之日記』において諏訪氏が関東管領山内上杉氏と通じて盟約違反をしたことが諏訪氏侵攻の理由とも言われる。しかしそれで諏訪に侵攻したのは少し拙劣な気もする。諏訪氏と山内上杉氏がどこまで密約をしていたか知る術がないのではっきりと言えないが、諏訪氏が同盟を破棄し上杉と共同で甲斐に攻めることとなっていたのなら、機先を制するという意味で諏訪への侵攻はアリかも知れない。
しかしながらそういった状況があったとは思いづらく、少なくとも諏訪氏が武田に刃向かえる戦力はなかったはずで、諏訪へ侵攻した武田軍が二千騎(高遠軍と合わせてかどうかは不明)であるのに対し、諏訪勢は二百騎に満たない寡兵であったことから隣国の武田に弓を引くことは自らの首を絞めることにしかならないからである。諏訪氏が諏訪を統治するには後ろ盾が必要だったと思われるのだ。高遠氏とこのとき良い関係を築けていたなら武田から離れることもありえるのだが、諏訪侵攻へは高遠氏も加わっていることから関係はかなり悪化していたのであろう。
さてなぜ家督を相続した晴信が諏訪侵攻であるが、一番は武田にとって、すぐに大きな利益となるからということが理由であると思う。諏訪は交通の要衝でもある。佐久を攻めるよりも経済的メリットがあったはずだ。ちなみに信虎も国内の乱を鎮めるとまず諏訪へ侵攻している。
諏訪への侵攻は高遠氏と共同で行われ、あっけなく諏訪は武田と高遠氏のものとなったのだが、やはり管理人としては信州全域を早く統一するということを考えると佐久の制圧をまず優先すべきであったと思う。 諏訪方面から甲斐への敵侵入の抑えとして諏訪氏を可能な限り利用すべきであった。
ただし当時そうできないなんらかの事情はあったのかも知れない。1542年という年は飢饉があり、早急に容易く利益になることが必要だったとも考えられなくはない。
ただ付け加えておきたいのは、諏訪への侵攻を決定したのはおそらく晴信ではなく、有力家臣団によるものだということである。板垣信方、甘利虎泰、つまり晴信を当主にした重臣達が諏訪攻めを決定したはずだ。
ともあれ諏訪を取った武田であるが、次に侵攻するのが、信虎失脚直後に離反した佐久(下地図:内山城、志賀城辺り)となる。
諏訪攻略後の拙劣な戦略
諏訪を十日余りで制圧した武田氏だが、共同で攻め込んだ高遠氏がその約一ヵ月後(1542年9月)、武田領の諏訪へ突如攻め寄せ上原城は陥落してしまう。この理由ははっきりと分からないが、諏訪占領後、両氏は分割で統治していたと思われるが、不公平な部分があったのか、もしくは甲斐の武田が諏訪を押さえていることが耐え難いことだったのだろうか。
その後晴信自ら出陣し、高遠勢を蹴散らすことに成功するもの上原城の再建と兵の常駐を余儀なくされる。
そして諏訪支配が安定を見せ始め、天文12年(1543年)9月、次に矛先を向けたのが佐久となる。
つい1年前に高遠が攻め寄せたにもかかわらず、なぜ佐久を選んだのか? あえて二正面作戦をとった理由はなんだったのか。
佐久はまだ小豪族の集まった地域でしかなく、大きな後ろ盾が無い限り、佐久が武田領に攻め込むことはまずなかったはずだ。戦力を集中して攻めるなら高遠氏以外にありえないはずだった。また攻める口実もあるし、攻められる芽を摘むためにも高遠を攻め滅ぼすことが戦略的には重要だったはずである。
しかしながら佐久・小県を侵攻に選んだのは小豪族が多く攻め取りやすかったらであろうか。信虎の時代、2年程度で佐久を制圧、支配下においている。
晴信の佐久・小県の侵攻は、この地方で力を持っている大井氏の拠点、長窪城を攻め落とし、残っている城を降伏させていった。順調に佐久支配が出来ると思われたが、その途中、高遠氏、福与の藤沢氏、そして小笠原長時とも連携し兵を挙げる。 このため1544年、武田氏は主力を伊那方面に向けることになる。しかし高遠、藤沢討伐には手を焼いたようで、今川の加勢ももらいながら翌年1545年に制圧となるが、小笠原氏と敵対関係になってしまう。
こうして南伊那郡は鎮圧したものの、今度は山内上杉家の後ろ盾を得た佐久がまた蜂起する。1546年に再度、武田軍は佐久へ侵攻するが、1546年に侵攻したのは理由があった。有名な河越合戦で山内上杉家が北条氏に大敗したのである。佐久内山城は同年に攻略したが、志賀城は上杉の援軍をあてに徹底抗戦の姿勢をみせた。しかし翌1547年に上杉の援軍は小田井原にて武田に敗北し、志賀城は陥落。ここでようやく佐久は武田のものとなった。
振り返ってみるとやはり1543年、佐久ではなく、まず高遠、藤沢氏を完全屈服させることを優先していれば時間は短縮できたように思う。二正面作戦を取ったばかりに不十分な戦力投入となり、かえって時間がかかってしまったと言えないだろうか。
晴信が家督をついで約5年で武田氏は諏訪、上伊那、佐久、小県一部を領することとなる。
そして諏訪支配が安定を見せ始め、天文12年(1543年)9月、次に矛先を向けたのが佐久となる。
つい1年前に高遠が攻め寄せたにもかかわらず、なぜ佐久を選んだのか? あえて二正面作戦をとった理由はなんだったのか。
佐久はまだ小豪族の集まった地域でしかなく、大きな後ろ盾が無い限り、佐久が武田領に攻め込むことはまずなかったはずだ。戦力を集中して攻めるなら高遠氏以外にありえないはずだった。また攻める口実もあるし、攻められる芽を摘むためにも高遠を攻め滅ぼすことが戦略的には重要だったはずである。
しかしながら佐久・小県を侵攻に選んだのは小豪族が多く攻め取りやすかったらであろうか。信虎の時代、2年程度で佐久を制圧、支配下においている。
晴信の佐久・小県の侵攻は、この地方で力を持っている大井氏の拠点、長窪城を攻め落とし、残っている城を降伏させていった。順調に佐久支配が出来ると思われたが、その途中、高遠氏、福与の藤沢氏、そして小笠原長時とも連携し兵を挙げる。 このため1544年、武田氏は主力を伊那方面に向けることになる。しかし高遠、藤沢討伐には手を焼いたようで、今川の加勢ももらいながら翌年1545年に制圧となるが、小笠原氏と敵対関係になってしまう。
こうして南伊那郡は鎮圧したものの、今度は山内上杉家の後ろ盾を得た佐久がまた蜂起する。1546年に再度、武田軍は佐久へ侵攻するが、1546年に侵攻したのは理由があった。有名な河越合戦で山内上杉家が北条氏に大敗したのである。佐久内山城は同年に攻略したが、志賀城は上杉の援軍をあてに徹底抗戦の姿勢をみせた。しかし翌1547年に上杉の援軍は小田井原にて武田に敗北し、志賀城は陥落。ここでようやく佐久は武田のものとなった。
振り返ってみるとやはり1543年、佐久ではなく、まず高遠、藤沢氏を完全屈服させることを優先していれば時間は短縮できたように思う。二正面作戦を取ったばかりに不十分な戦力投入となり、かえって時間がかかってしまったと言えないだろうか。
晴信が家督をついで約5年で武田氏は諏訪、上伊那、佐久、小県一部を領することとなる。
武田 VS 村上、小笠原
1548年早々、武田軍は北信の雄、村上義清を倒すべく砥石城の攻略へ向かった。後詰に村上軍が到着し合戦(上田原の合戦)となったが、武田は大敗北を喫する。板垣、甘利という重臣が討死し、その他有力家臣も戦死したのだ。
この敗北がきっかけで、小笠原が諏訪へ向けて侵攻する。また武田に与していたもの、日和見だった国人も武田から離れる動きを見せることなる。このときの諏訪を失陥すれば、また佐久も失う危険もあり、晴信が直面した最大のピンチであったが、塩尻峠の合戦で小笠原家を打ち破り、上田原の敗戦から寝返った国人らも制圧した。 そして1549年には武田は村上、小笠原の二正面作戦を避けるべく、村上氏に和睦を申し出るが拒絶される。この年には記録ではおおがかりな武田の侵攻はない。(調査不足かも・・)二正面に敵を抱える形になっていたため、主力を一方に投じることが難しかったのかも知れない。また小笠原氏の侵攻に同調した勢力の追討で余裕が無かったのかもしれない。
1550年7月になってようやく小笠原攻略へ向かい小笠原氏はあっけなく崩壊し、村上氏へ逃亡する。そして帰還することなく、8月、そのまま砥石城への攻略へ向かうこととなる。ところが堅城の砥石城は力押しでは落ちる気配を見せなかった。9月に入り攻囲して約1ヶ月余り経過した頃、村上氏が後詰に現れ、撤退が遅れた事が原因と思われるが大きな負け戦となってしまう(砥石崩れ)。 再びこう着状態が続くことになるが、1551年に真田幸隆が砥石城を単独で攻略してしまう。これを機に砥石崩れにて反旗を翻した国人を一掃し、平瀬城に篭る小笠原の残党を討ち、1553年までに小笠原は信州から消滅。また村上氏の居城、葛尾城も武田の手に落ちることとなる。
信濃の主だった勢力は一掃し信濃全域の攻略目前であったが、このとき越後の長尾景虎が登場することになる。そして武田は少しづつ勢力は伸ばすものの、川中島周辺において一進一退といえる合戦を10年間、続けることになり、信州統一は未達成で終わることになる。
この敗北がきっかけで、小笠原が諏訪へ向けて侵攻する。また武田に与していたもの、日和見だった国人も武田から離れる動きを見せることなる。このときの諏訪を失陥すれば、また佐久も失う危険もあり、晴信が直面した最大のピンチであったが、塩尻峠の合戦で小笠原家を打ち破り、上田原の敗戦から寝返った国人らも制圧した。 そして1549年には武田は村上、小笠原の二正面作戦を避けるべく、村上氏に和睦を申し出るが拒絶される。この年には記録ではおおがかりな武田の侵攻はない。(調査不足かも・・)二正面に敵を抱える形になっていたため、主力を一方に投じることが難しかったのかも知れない。また小笠原氏の侵攻に同調した勢力の追討で余裕が無かったのかもしれない。
1550年7月になってようやく小笠原攻略へ向かい小笠原氏はあっけなく崩壊し、村上氏へ逃亡する。そして帰還することなく、8月、そのまま砥石城への攻略へ向かうこととなる。ところが堅城の砥石城は力押しでは落ちる気配を見せなかった。9月に入り攻囲して約1ヶ月余り経過した頃、村上氏が後詰に現れ、撤退が遅れた事が原因と思われるが大きな負け戦となってしまう(砥石崩れ)。 再びこう着状態が続くことになるが、1551年に真田幸隆が砥石城を単独で攻略してしまう。これを機に砥石崩れにて反旗を翻した国人を一掃し、平瀬城に篭る小笠原の残党を討ち、1553年までに小笠原は信州から消滅。また村上氏の居城、葛尾城も武田の手に落ちることとなる。
信濃の主だった勢力は一掃し信濃全域の攻略目前であったが、このとき越後の長尾景虎が登場することになる。そして武田は少しづつ勢力は伸ばすものの、川中島周辺において一進一退といえる合戦を10年間、続けることになり、信州統一は未達成で終わることになる。
序盤の戦略ミスが信州統一を未完にした
1つ目は1542年の諏訪への侵攻が早すぎたこと、2つ目は諏訪を占領後、高遠氏を討つ前に佐久へ侵攻したこと、これらが大きな失敗で合ったと思う。これが原因で侵攻が遅れ、統一未達成で終わったように見える。仮に長尾影虎が家督を相続する1550年までに小県を制圧し、埴科まで到達出来れば、善光寺一帯を支配し信州統一の可能性が極めて高かったことと思う。
参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |