どれぐらの食料が必要だったのか?

合戦といえば鉄砲を放ち、槍先を交え、騎馬武者が突撃といった華々しい戦闘がドラマや漫画でもピックアップされるが、そうした戦闘を行うには兵や馬に食料が不可欠で、合戦の際の兵糧調達・運搬は戦闘同様に重要なだったはず。
そこでこのページでは長篠合戦を例にして、どれぐらいの食料がおおまかに必要だったのかをまず検証してみる。

武田徳川織田領

長篠合戦において武田軍が一万五千と信長公記にあるので、これを元に武田軍が必要と思われる兵糧を計算してみたい。 兵には1日約五合から七合の米が支給されたと言われている。その他塩や味噌などありますが、分かりやすくするためここでは米五合のみを計算する。
ちなみに五合という米の量は現代の成人男子が食べる量としては若干多い。(ただしメインのオカズはない) 五合×一万五千人で1日七万五千合の米が必要となる。1石が1000合であるから、兵一万五千に必要な米の量は1日75石となる。

[参考リンク]
石 (単位)
wiki

作戦期間

武田軍は一日75石の兵糧が必要ということが分かったのだが、次に行軍から戦闘、撤退までの作戦期間を見てみたい。
勝頼の出発は4月5日(旧暦)とされている。そして4月21日長篠城包囲、攻撃し、5月21日、織田・徳川軍との合戦にて敗北。約45日間となるので上の75石×45で3375石となりますが、敗戦しなければ帰りの行軍の日数も本来含める必要がある。

兵糧の総重量から必要な輸送

3375石の重さをまず計算。1石は150キロとされているので506250キログラムとなる。武田軍は陸路にて長篠へ到達していることから、米の輸送は馬、人足だったであろう。馬が積載できる重さを100キロとしてみると約5千頭が輸送に必要ということになる。 当然ながらこの五千頭という数は一回で1万5千人×45日分の食料を甲斐から長篠まで運ぶ場合の頭数(つまり”のべ”)で、実際には輸送の馬は半分以下であったと考えられる。

物資の運搬は米以外にも塩、大豆、武器もあるので、それを含めれば輸送量がもっと増えることとなる。

兵糧の輸送と調達は?

上の例では甲斐国から食料を運び込む場合のことであるが、実際にはそのように真面目?な食料運搬はされなかったと思われる。 大掛かりな小荷駄を編成することも経費がかかることであるからだ。
小荷駄の数を減らす方法として考えられるのは、まず行軍途中の味方城を補給基地とすることである。例えば飯田付近を補給基地とするれば、その間を輸送部隊や伝馬、馬借などを利用し何度か往復させれば良い。
食料のについては当時の合戦では乱取りが当たり前のように行われていたことから、村からの略奪という手段もありますが、どれぐらいの備蓄があるかは不透明であると思われ、どこまで当てにして良いかは分からない。

合戦がどのくらいの期間続くかにより必要な量は変わってくるのだが、最低限必要な食料の量があるはずだ。 そこでまず武田軍の行軍を見てみる。
長篠合戦においては武田軍は諏訪付近で全軍が集結し長篠へ向かったと思われる。諏訪から長篠までの距離であるが、おおよそ100キロはある。しかも山道をいくため早く見積もっても5日はかかると思われる。1週間から10日ほどかかってもおかしくはない。
(織田軍は信長公記では岐阜から長篠まで岡崎、牛窪、野田を通り約5日で到達している。この距離は約100キロ弱である。)
よく言われる自前で3日分の食料の携行では、別に食料の運搬か若しくは途中、食料を買い取る、また奪い取ることをしなければ長篠到達まえに食料は尽きる。

なのでなんらかの方法で食料の確保はしたはずなのだが、はっきりとした史料がなく推察するより他無い。 一応考えられる食料確保の方法をリストアップしてみる。

予め数ヶ月間の合戦が出来る食料を運ぶ
(利点)食糧不足の心配が軽減される。
(問題点)多くの輸送部隊が必要になる。短期間で決着がついた場合に無駄。

宿場町・村・商人等より食料を途中で買い取る(銭)
(利点)輸送部隊を減らすことが出来る。領内の宿場の活性。
(問題点)少数ならいきなりでも問題ないが1万5千人分を購入する場合、事前に準備・連絡が必要か。

乱取りをする
(利点)輸送部隊を減らすことが出来る。兵の士気向上。
(問題点)勝利後の統治の問題。またどれぐらい確保出来るか不透明。

鳳来寺、医王寺等より禁制の見返り
(利点)輸送部隊を減らすことが出来る。
(問題点)備蓄があるか否か事前調査必要か。

行軍路の城・砦に予め兵糧を貯めておく(大島城?・諏訪?・高遠?)
(利点)輸送距離短縮。
(問題点)事前準備と数千規模の小荷駄隊は必要か。

小荷駄という部隊

兵糧や武器弾薬の輸送の任務にあたったのが小荷駄隊である。長篠合戦にて小荷駄奉行を勤めたのは甘利信康と言われている。甘利信康は100騎の侍大将でこの合戦で討死をしている。
小荷駄隊は輸送任務の他、物資調達・手配にもあたったらしい。
武田軍の小荷駄が甘利隊が指揮していたとするなら、その規模は、先述出した輸送に必要な馬数(五千頭)と比べてかなり小さいと予想される。100騎の侍大将であればその総兵数は千に満たない部隊と思え、小荷駄の規模はそれほど大きかったとは思えない。

[参考リンク]
小荷駄
内容について。

まとめ

三河や遠江は当時、武田の侵攻方面となっており、兵糧、物資を運び入れたり、調達する体制はある程度整えられていたものと思うのですが、兵糧米や物資を甲斐・信濃から運び入れるとなるとかなり面倒で無理があることは間違いない。

ちなみに合戦とは離れますが、当時街道ではある程度の間隔で旅籠のようなものがすでにあったとする史料があり、銭さえあれば宿・食べ物に特に困ることなく旅行することが出来たようだ。つまりわざわざ何日か分の食料を持つ必要はほとんど無かったということである。(「永禄六年北国下り遣足帳」)

民間においてこのような体制が出来上がっていたことを考えると、常識を超えるような軍事行動でもない限り、銭で現地調達(行軍途中も含め)できるようになっていても不思議はないように思え、それが一番合理的だ。輸送規模が大きかったとする史料でも出ない限り、長篠合戦における武田軍の食料は銭による買取か現地での徴発が主な方法であったと見て良いと思う。


[参考リンク]
「戦国時代の旅」永禄六年北国下り遣足帳
内容について。


参考書籍

百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。

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関連サイト

戦国時代の合戦データベース
姉妹サイト。だいぶネタつきましたが(笑)、日本各地の戦国合戦について簡単に紹介しています。
氏別合戦表
武田氏
桑原城の合戦より〜田野の合戦
織田氏
小豆坂の合戦より〜


みんなで作る戦国マップ

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動画でお城、古戦場

当サイトで撮影したお城、古戦場を動画で紹介。Youtube版。