日本の公娼制度

日本の公娼制度は、江戸時代に既に確立している。 農村では、夜這いなどの風習があり(日露戦争ころまで続いたらしい。)、特に遊郭は必要なかっただろうが、都市部では多く存在している。
一番有名なのは吉原であるが、京都や大阪など地方にも幕府・藩公認の遊郭が多くあり、現在もその名残が残っている。公認遊郭以外にも私娼は多く様々な形式での売春が行われていた。特に江戸は、男女比率が異常に偏っており(もちろん男が多い)、どうしてもそういった場所が必要だったのだろう。
常に一貫していたわけではないが、都市部の風俗について幕府は厳しく、例えば老中水野忠邦による「天保の改革」などでは、岡場所27箇所574軒の取り潰し、女髪結の廊外営業禁止などが行われた他、私娼を遊郭に送るなどの措置がとられている。

江戸時代の遊郭では、基本的に人身売買が横行していた。ただし人身売買は禁止されていたため、形式上は年季奉公という形である。つまり、貧家から娘を買うのではなく、娘の労働成果を買う、という形式である。なので、年季が明ければ家に帰れる、という建前であった。しかしあくまでも建前であって、実質は人身売買であ ったし、単なる人身売買であれば、買われた娘が自殺・逃亡しても売った貧家は金を返す必要がないが、年季奉公であれば、娘が自殺・逃亡すれば売った貧家から金を取り戻す根拠となってしまうという点でより悲惨な状況であったといえる。
明治維新後もこの状況はしばらく続いていたが、1872年のマリア・ルーズ号事件(ペルー国船から逃れた中国人奴隷を日本が保護しようとして、逆に日本の人身売買を指摘された事件)をきっかけとして、娼妓解放令が出される。

娼妓解放令1872年

(1872年明治5年太政官布告第295号)
人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上トス 一 人身ヲ売買致シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可為厳禁事
一 農工商ノ諸業習熟ノ為メ弟子奉公為致候儀ハ勝手ニ候得共年限満七年ニ過ク可カラサル事 但双方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事
一 平常ノ奉公人ハ一ケ年宛タルヘシ尤奉公取続候者ハ証文可相改事
一 娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事 右之通被定候條屹度可相守事
http://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E8%B3%A3%E8%B2%B7%E3%83%B2%E7%A6%81%E3%82%B7%E8%AB%B8%E5%A5%89%E5%85%AC%E4%BA%BA%E5%B9%B4%E9%99%90%E3%83%B2%E5%AE%9A%E3%83%A1%E8%97%9D%E5%A8%BC%E5%A6%93%E3%83%B2%E8%A7%A3%E6%94%BE%E3%82%B7%E4%B9%8B%E3%83%8B%E4%BB%98%E3%83%86%E3%83%8E%E8%B2%B8%E5% 80%9F%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E3%83%8F%E5%8F%96%E4%B8%8A%E3%83%88%E3%82%B9)現代字に直した。
(1872年明治5年司法省布達第22号)
 明治五年十月 本月二日太政官第二百九十二号にて仰出され候次第に付き、左の件々心得べき事。
一、人身を売買するは古来制禁の処、年期奉公等種々の名目を以て、その実売買同様の所業に至るに付き、娼妓芸妓等雇人の資本金は賍金と看做(みな)す。故に右より苦情を唱うる者は取糺しの上、その金の金額を取揚ぐべき事。
一、同上の娼妓芸妓は人身の権利を失うものにして牛馬に異らず、人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ借す所の金銀等はいっさい償うべからざる事。ただし本月二日以来の分はこの限りにあらず。
一、一の子女を金談上より養女の名目になし、娼妓芸妓の所業をなさしむるものは、その実際上すなわち人身売買に付き、従前今後厳重の処置に及ぶべき事。
[出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 明治ニュース事典 第Ⅰ巻、p.186-7.] この太政官布告は1898年明治31年に民法施行法に移行し廃止されるが、(年季奉公という)人身売買によって売春婦となった者は、これによって解放されるはずであったが、わずか3年後の1875年の太政官布告第128号では「但期限ヲ定メ、工作使役等ノ労力ヲ以テ負債ヲ償フハ此限ニアラス」とされてしまう。
つまり、無期限の年季奉公は禁止するが、期限が定まっていれば年季奉公も可である、となり事実上、管理売春制度は温存されてしまう。ただし、これも無条件に認められたわけではなく、売春は許可制であることは定められ、売春は政府管理下において公認となった。これを定めたのが売淫罰則(1876年)である。

 ○売淫罰則
○警視庁第23号 1876年明治9年1月27日
売淫罰則左ノ通相定候条此嘗各区ヘ可相達候事

 ○売淫罰則
第一条 凡ソ許可ヲ得スシテ売淫ヲ為シ及ヒ媒号容止スル者初犯ハ拾円以内再犯以上ハ弐拾円以内窩主初犯ハ拾五円以内再犯以上ハ三拾円以内之罰金ヲ科ス
 但シ父母等ノ指令ヲナス者ハ其罰ヲ指令者ニ科ス
第二条 若シ無力ニシテ罰金ヲ徴収ス可カラサル売淫者及ヒ媒合容止初犯ハ二ケ月半以内再犯以上ハ五ケ月以内窩主初犯ハ三ケ月以内再犯以上六ケ月以内ノ苦使ニ処ス
第三条 売淫ニ類スル猥褻ノ現跡ヲ認ムル三度ニ至ル者此ノ現則ニ照シ処置ス可シ 第四条 売淫ノ罰ヲ受ケシ者貧窮ニシテ自存スル能ハサルハ教育所ニ付シテ工芸ヲ授ク可シ其工事ハ習熟シ又ハ工銭ノ貯蓄ヲ得就処ノ目途アルカ或ハ人ニ嫁スル等ノ類ハ親戚又ハ地主家主差配人等身元確カナル者ノ保証ヲ以テ之ヲ下付ス可シ(同年2月削除)
第五条 右ノ者再犯ヲナストキハ保証人ヨリ五円以内ノ罰金ヲ科ス(同上)
第六条 寄留ノ者売淫ノ罰ニ処セシトキハ其親戚又ハ雇主受人或ハ町用掛等ヘ責付シ本籍ヘ送還セシムルコトアルヘシ
第七条 右ノ罰金ハ総テ教育所ノ費用ニ充ツ可シ(同上)

1ヶ月と持たずに削除されているが、制定当初において、売春の他に生活のすべがない者について政府が教育を施すという趣旨(第4条、第5条、第7条)が見られて興味深い内容である。つまり、政府自身も売春を業種として望ましいものではないと見ていた証左と言えよう。なお、1873年以降、「女紅場」と呼ばれる正業を訓練する 施設が作られていく(運営資金は、官費ではなく芸娼妓自身の工面による)。
1872年の娼妓解放令は人身売買された売春婦の解放に十分な役割を果たしたわけではなかったが、ある程度の効果はあった。そのひとつが「廃業の権利」である。娼妓解放令を根拠に売春婦は廃業を希望することができるようになった。
ただし、これに対し楼主側は売春婦の廃業希望を拒否することができた。廃業届に売春婦と楼主の連署が必要だったからである。
この廃業に関する訴訟が増えていき、1900年の大審院判決に至ることになる。

「33年2月大審院は、函館の娼妓坂井フタが貸座敷主山田精一に対し起こしていた娼妓廃業届書への捺印請求事件について「貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ、身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ」として、函館での原判決を破棄し、函館控訴院へ差 し戻すという判決を下した(『日本婦人問題資料集成』人権)。」
(函館市史:通説編2 4編13章1節4-2
この大審院判決に基づき、1900年明治33年「娼妓取締規則」が定められる。

娼妓取締規則(明治三十三年十月内務省令四十四号)

第一条 十八歳未満の者は娼妓たるを得ず
第二条 娼妓名簿に登録せられざる者は娼妓稼を為すことを得ず
娼妓名簿は娼妓所在地所轄警察官署に備ふるものとす
娼妓名簿に登録せられざる者は取締上警察官署の監督を受くるものとす
第三条 娼妓名簿に登録は娼妓たらんとする者自ら警察官署に出頭し左の事項を具したる書面を以て之を申請すべし
 一 娼妓と為る事由
 二 生年月
 三 同一戸内に在る最近尊族親尊族親なき時は戸主の承諾を得たる事若し承諾を与ふべき者なき時は其事実
 四 未成年者に在ては前号の外実父、実父なき時は実母、実父母なき時は実祖父、実父母実祖父なき時は実祖母の承諾を得たる事
 五 娼妓稼を為すべき場所
 六 娼妓名簿登録後に於ける住居
 七 現在の生業但し他人に依りて生計を営む者は其事実
 八 娼妓たりし事実の有無並に嘗て娼妓たりし者は其稼業の開始廃止の年月日、場所、娼妓たりし時の住居及稼業廃止の理由
 九 前各号の外庁府県令にて定めし事項
前項の申請には戸籍吏の作りたる戸籍謄本前項第三号第四号承諾書及び市区町村長の作りたる承諾者印鑑証明書を添付すべし 娼妓名簿登録申請者は登録前庁府県令の規定に従ひ健康診断を受くるものとす
第四条 娼妓稼を禁止せされたる者は娼妓名簿より削除せらるるものとす
前項の外娼妓名簿の削除は娼妓より之を申請するものとす但し未成年者に在ては前条項第一項第三号及第四号に掲ぐる者よりも之を申請することを得 第五条 娼妓名簿削除の申請は書面又は口頭を以てすべし
前項の申請を自ら警察官署に出頭して之を為すに非ざれば受理せざるものとす但し申請書を郵送し又は他人に託して之を差出す場合に於て警察官署が申請者自ら出頭すること能はざる事由ありと認むる時は此限に在らず警察官署に於て娼妓名簿削除申請を受理したる時は直に名簿を削除するものとす
第六条 娼妓名簿削除申請に関しては何人と雖妨害を為すことを得ず
第七条 娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず
娼妓は法令の規定若くは官庁の命令により又は警察官署に出頭するが為め外出する場合の外警察官署の許可を受くるに非ざれば外出することを得ず但し庁 府県令の規定に依り一定の地域内に於て外出を許す場合は此限に在らず
第八条 娼妓稼は官庁の許可したる貸座敷内に非ざれば之を為すことを得ず
第九条 娼妓は庁府県令の規定に従ひ健康診断を受くるべし
第十条 警察官署の指定したる医師又は病院に於て疾病に罹り稼業に堪へざる者又は伝染性疾患ある者と診断したる娼妓は治癒の上健康診断を受くるに非ざれば稼業に就くことを得ず
第十一条 警察官署は娼妓名簿の登録を拒むことを得ず
庁府県長官は娼妓稼業を停止し又は禁止することを得
第十二条 何人と雖娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害することを得ず
第十三条 左の事項に該当する者は二十五円以下の罰金又は二十五日以下の重禁固に処す

 一 虚偽の事項を具し娼妓名簿登録を申請したる者
 二 第六条第七条第九条第十二条に違背したるもの
 三 第八条に違背したるもの及官庁の許可したる貸座敷外に於て娼妓稼を為さしめたる者
 四 第十条に違背したる者及第十条に依り稼業に就くことを得ざる者をして強て稼業に就かしめたる者
 五 第十一条の停止命令に違背したる者及稼業停止中の娼妓をして強て稼業に就かしめたる者
 六 本人の意に反して強て娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請を為さしめたる者 第十四条 本令の外必要なる事項は庁府県令を以て之を定む 第十五条 本令施行の際現に娼妓たる者は申請を持たして娼妓名簿に登録せらるるものとす
(参照:近代デジタルライブラリー娼妓取締規則

第6条「娼妓名簿削除申請に関しては何人と雖妨害を為すことを得ず」を見ればわかるように、明確に自由廃業の権利が認められた点において、画期的であったが、これでもなお問題は残った。
それは、人身売買で生じる金銭貸借関係である。 大審院判決「金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立」の文言が、金銭貸借関係の根拠となった。
”売春婦はいつでも自由に廃業することができる。ただし、借金の返済義務はなくならない。”
売春以外に返済手段を持たない売春婦は、結局「借金返済のための自由意志による売春」を行わざるを得なかった。
とは言え、娼妓解放令(1872年)、売淫罰則(1876年)、娼妓取締規則(1900年)と不十分ではあるものの、日本の公娼制度は徐々に売春婦の人権を確保する方向に動いてきた。これらは、婦人矯風会や救世軍など廃娼運動に取り組んできた団体の成果といえる。
地域的には新島襄などによる廃娼運動により、1882年群馬県議会で全国初の公娼廃止の決議がなされている。