平時における兵士達の慰安所

戦争をしてないときは国内の公娼・私娼で
大東亜戦争中、日本人の従軍慰安婦は現役の娼妓として働いている女性が多かった。当時の日本国内の風俗は明治のころと大差はなく、政府公認の風俗と非公認の風俗(暗黙の了解)とあった。
政府公認として有名なところは、”吉原”である。現在でも高級なソープランドが立ち並んでいるが、昭和初期もやはり一般庶民が遊ぶには高すぎる風俗街であった。
ちなみに兵隊の最下級である2等兵の月給はこのころ約3円ぐらいであった。かなり安い月給ではあるが、生活用品や服、食事は軍から支給されていたから、もらうお給料は個人の遊ぶお金としてほぼ使うことができたのである。階級があがるにつれてお給料もあがっていくのだが、陸軍の大将ともなると500円近くもらっていたようだ。

で、吉原の遊郭ではどれぐらの遊び料金がかかったかというと、約5円~10円かかった。 そこで、高級で美人ぞろいの風俗では下級の兵士は遊ぶことができなかったが、非公認の風俗(私娼窟)はお求めやすいお値段で、日曜、祝日は祝日で外出ができたから、溜まりに溜まったものを吐き出しに私娼窟や安い遊郭(関東では品川が有名)へとでかけたのである。
(もちろんみんながみんな女遊びをした訳ではないと一応付け加えておく)

私娼窟やお安い遊郭をもう少し分かりやすく説明をすると、短い時間(30分ぐらいか?)でエッチなことをするお店で所謂ちょんの間というところである。
その他、大正時代から私娼として認知されていた銘酒店やカフェ、小料理屋なども形式ばらない感じの風俗として人気(サービス内容はどれもほとんど差はない)もあり、値段も1円とか2円以内で遊べたから、下級兵士が性欲を満たすためによく利用したようである。

下級兵士はお小遣いだけでなく、休日とはいえ、遊ぶ時間も少なかった。 外出は夕方までと決められていたということも、短時間でお遊びができる”ちょんの間”を選んだ理由でもあった。ちなみに下級の兵士は外出時間がオーバーすると、罰を与えられ、営倉に閉じ込められた。
これが下士官になると、お給料もよく、外出時間も9時ごろまで許されていたから、門限ギリギリまでお遊びをしたようで、時代は少し遡るが大正時代『トコトット節』でもこのことが歌われている。

日本が戦争をはじめると、私娼、公娼で働いていた風俗経験者の女性を対象に、従軍慰安婦の募集を行い、数百円、数千円の前借金(今風に言えばバンス?)をさせて、売春と借金は別々の契約ということにして雇い、建前上、借金を返済する目的で本人の自由の意思で選択ということにしている。
(当時、借金のカタで売春させるのは違法であったのだが、ちょっと苦しい言い訳ですねぇ・・)