織田軍と上杉軍の進軍経路と布陣予想図
1577年(天正5年)9月15日に地図右上の七尾城を攻略ほぼ直後に、織田の援軍が七尾城へと進軍中と知らせを受けた上杉謙信は、織田軍を迎え撃つべく、加賀へと進軍。手取川は松任城に近く、この時期、この地域(手取川より北)はすでに上杉方になっていたと思われるから、謙信にすれば松任まで進軍したのは救援の意味合いもあったものと思われる。(下図の赤線の上杉軍経路)
一方の織田軍は七尾城よりの救援依頼を受けて、進軍したものの七尾城の落城を知ったのは9月23日。このとき上杉軍はすでに松任付近にまで到着。この上杉軍の進軍中、織田方の城がいくつかあったものの、七尾城の落城のこともあってか、まともに戦うことなく降伏したものと思われる。(下図の青線の織田軍経路)
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七尾城の合戦 上杉謙信 VS 長続連(ちょう つぐつら)
年代 天正5年(1577)9月15日
場所 石川県七尾市古府
上杉謙信と本願寺は激しい戦いを繰り広げてきたが、天正4年に和議が成立した。 上洛のために越中、能登を進軍するものの七尾城はなかなか攻略できなかった。
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実際にこの合戦があったかどうかははっきりせず、史料がないため、両軍の布陣図は完全予想図です。
合戦は上杉軍の一方的な戦いになったようで、理由は9月23日、織田軍が手取川を渡河した直後に七尾城の落城を知り、軍議で七尾城救援を断念し撤退を決めたところに上杉軍が襲い掛かったらしい。
織田軍は上杉軍の進軍を渡河し終えるまで知らなかったらしいのだ。
正直なところ、そんなことがあり得るのかなと首を傾げてしまう。上杉軍の兵力は分かっていないが、おおよそ3万から4万程度と考えられる。そんな大部隊の進軍が織田軍に伝わってこないというのは解せない。 しかしながら織田信長が加賀、越中攻略がこの4年後であったことを考えると、上杉軍にコテンパンにやられたのは事実かもしれない。
[関連ページ]
一方の織田軍は七尾城よりの救援依頼を受けて、進軍したものの七尾城の落城を知ったのは9月23日。このとき上杉軍はすでに松任付近にまで到着。この上杉軍の進軍中、織田方の城がいくつかあったものの、七尾城の落城のこともあってか、まともに戦うことなく降伏したものと思われる。(下図の青線の織田軍経路)
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七尾城の合戦 上杉謙信 VS 長続連(ちょう つぐつら)
年代 天正5年(1577)9月15日
場所 石川県七尾市古府
上杉謙信と本願寺は激しい戦いを繰り広げてきたが、天正4年に和議が成立した。 上洛のために越中、能登を進軍するものの七尾城はなかなか攻略できなかった。
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実際にこの合戦があったかどうかははっきりせず、史料がないため、両軍の布陣図は完全予想図です。
合戦は上杉軍の一方的な戦いになったようで、理由は9月23日、織田軍が手取川を渡河した直後に七尾城の落城を知り、軍議で七尾城救援を断念し撤退を決めたところに上杉軍が襲い掛かったらしい。
織田軍は上杉軍の進軍を渡河し終えるまで知らなかったらしいのだ。
正直なところ、そんなことがあり得るのかなと首を傾げてしまう。上杉軍の兵力は分かっていないが、おおよそ3万から4万程度と考えられる。そんな大部隊の進軍が織田軍に伝わってこないというのは解せない。 しかしながら織田信長が加賀、越中攻略がこの4年後であったことを考えると、上杉軍にコテンパンにやられたのは事実かもしれない。
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参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |