武田氏の合戦
桑原城の合戦 武田信玄 VS 諏訪頼重
年代 天文11年(1542)6月24日
場所 長野県諏訪市四賀桑原
米戦争と言われている、このときの武田の信州侵攻は、甲斐の飢饉が原因と言われている。この年だけでなく、4,5年続きの飢饉であったため、武田信玄(当時は晴信)はなんとかして領民を救済するためにも、
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志賀城の合戦 武田信玄 VS 笠原清繁(NHK大河『風林火山』たけし軍団のダンカン)
年代 天文16年(1547)7月24日
場所 長野県佐久市志賀
領土拡大を目指し、信州へと侵攻した武田晴信(後の信玄)。 1547年に佐久の志賀城攻略しようと7月に包囲をした。 志賀城は堅城で、城主の笠原清繁も徹底抗戦の構えを見せていた。
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上田原の戦い 村上義清VS武田信玄
年代 天文17年(1548年) 2月14日
場所 長野県上田市上田原
北信の雄、村上義清が武田信玄をコテンパンにやっつけた戦いで有名。 ほとんど負け無しの武田信玄であったが、村上義清には2度も敗北を喫している。
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勝弦峠の合戦(塩尻峠の合戦) 武田晴信 VS 小笠原長時
年代 天文17年(1548)7月19日
場所 長野県岡谷市塩嶺
1548年の2月、武田晴信(後の信玄)は村上義清に上田原で大敗北を喫した。 武田氏の信州への侵攻が一時頓挫したとみて、反武田連合(村上氏、小笠原氏などの信州の豪族)が武田を信州から追い出そうと立ち上がった。 これがだいたい7月頃であった。
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戸石城の合戦 村上義清 VS 武田信玄
年代 天文19年(1550)9月9日〜10月1日
場所 長野県上田市上野字城山
上田原の合戦(1548)で武田氏筆頭家老、ソニー千葉(板垣信方)とゴリさん(甘利虎泰)を失った武田信玄であったが、信州攻略をあきらめてはいなかった
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※戸石城の合戦に関しては当サイトでも戸石城の縄張図も掲載し、検証しております。
川中島の合戦 第一回〜三回まで 武田信玄 VS 上杉謙信
年代 天文22年〜弘治3年(1553年〜1557年)
場所 長野県小島田町
上杉謙信(ガクト)と武田信玄の合戦で有名なのは第四回の川中島の合戦だが、まずは1回目〜3回目まで。 発端は、村上義清が本城である”葛尾城”
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川中島の合戦 第4,5回 武田信玄 VS 上杉謙信
年代 永禄4年〜7年(1561〜1564)
場所 長野県小島田町
川中島の合戦の中で一番の激戦となったのが4回目であった。 第三回の合戦よりすでに4年近くたっている。 この間、今川義元が桶狭間で討死(1560年)という大きな事件
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松山城の合戦 武田信玄・北条氏康 VS 上杉憲勝
年代 永禄6年(1563年)2月14日
場所 埼玉県比企郡吉見町
1561年、上杉謙信の関東小田原城攻めが終わって、それまで上杉になびいていた者たちが次々と北条方に寝返っていった中、松山城の上杉憲勝と岩槻城の太田資正は上杉方のままだった。
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箕輪城の合戦 武田信玄VS長野業盛(なりもり)
年代 永禄9年(1566)9月29日
場所 群馬県群馬郡箕郷町箕輪
長野氏の二代目、長野業正が1561年の秋に老衰で亡くなった後、武田信玄は北関東へ攻略にとりかかり、長野氏は孤立無援の状態に陥った。
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今川館の合戦 武田信玄 VS 今川氏真
年代 永禄11年(1568)12月
場所 静岡県静岡市城内、屋形町
今川領の侵略を考えていた武田信玄が徳川家康と密約をかわしさつた峠より侵攻。今川氏真は陣頭に立って、防戦するもあえなく敗走。賤機山城へ逃げようとするもすでに武田方に占拠
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三増峠の合戦 武田信玄 VS 北条氏照
年代 永禄12年(1569)10月6日
場所 神奈川県愛甲郡愛川町三増、津久井郡津久井町根小屋
武田信玄が今川領であった駿河に侵攻したことにより、長年続いてきた相甲駿の三国同盟が破綻。あらたにずっと仲が悪かった上杉謙信と北条氏康は同盟を結んだ。
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※三増峠の合戦直前の信玄による小田原城の合戦に関しては当サイトでも小田原城の縄張図も掲載し、若干検証しております。
蒲原城の合戦 武田信玄・勝頼 VS 北条綱重
年代 永禄12年(1569)12月6日
場所 静岡県庵原郡蒲原町蒲原
駿河の攻略を目指し、武田信玄は1568年から攻撃を開始するが、駿河の国をほしいのは武田だけではなく、武蔵、相模の北条、西の遠江の徳川も欲しがった。
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花沢城の合戦 武田信玄 VS 大原資良
年代 元亀元年(1570)1月4日〜8日
場所 静岡県焼津市高崎城山
武田信玄が花沢城と包囲したのは1月4日のことだった。 城将は大原資良で、今川氏真が駿河から伊豆へと移ってからも、今川の配下として花沢城で頑張っていた。
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三方ヶ原の合戦 武田信玄 VS 徳川家康
年代 元亀3年(1572)12月22日
場所 静岡県浜松市三方ヶ原
武田信玄の合戦の中で有名な戦いで、徳川家康が唯一完敗した合戦。 このころ武田信玄はすでに病魔におかされていたようで、躑躅ヶ崎館の出発も10月1日
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※三方ヶ原の合戦に関しては当サイトでも、浜松城の縄張も掲載し検証しております。
野田城の合戦 武田信玄 VS 菅沼定盈
年代 天正元年(1573) 1月〜2月
場所 愛知県新城市野田
12月、三方ヶ原で徳川家康をやぶって野田城の攻略にとりかかる武田信玄。 篭城側は400の兵しかいなかったが、鉄砲が配備されており、攻略にてこづっていたが、
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高天神城の合戦 武田勝頼 VS 小笠原長忠
年代 天正2年(1574)5月12日〜6月17日
場所 静岡県小笠原郡大東町土方
元々は今川家の支城であった高天神城だが義元が討死し、1568年に武田信玄と呼応して家康が今川家を攻めた折に、特に争うこともなく高天神城は徳川氏の支城となった。
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※高天神城攻防戦に関しては当サイトでも高天神城の縄張を掲載し検証しております。
長篠の合戦 織田信長・徳川家康 VS 武田勝頼
年代 天正3年(1575)4月〜5月21日
場所 愛知県南設楽郡鳳来町、新城市
歴史が苦手な人でも知っている合戦。また最近では定説になっていた、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲3000丁そして3段撃ちであるが、実際には1000丁から1500丁ぐらいで、3段撃ちもどうやら違うといわれ始めている。
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※長篠の合戦に関しては当サイトでも検証しております。
高天神城の合戦 徳川家康 VS 岡部真幸(武田方)
年代 天正8年(1580)10月22日〜天正9年3月22日
場所 静岡県小笠原郡大東町土方
長篠合戦で武田勝頼は大敗を喫し、遠江の武田領は徳川に奪われていったが、高天神城は奪うことが出来なかった。
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※高天神城攻防戦に関しては当サイトでも高天神城の縄張を掲載し検証しております。
田野の合戦 武田勝頼 VS 滝川一益
年代 天正10年(1582)3月11日
場所 山梨県東山梨郡大和村田野
長篠の合戦以降、織田、徳川軍に押されっぱなしの勝頼であったが、背後の上杉、北条と同盟を結んでいたから、なんとか持ち堪えていた。ところが上杉謙信が病死し
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年代 天文11年(1542)6月24日
場所 長野県諏訪市四賀桑原
米戦争と言われている、このときの武田の信州侵攻は、甲斐の飢饉が原因と言われている。この年だけでなく、4,5年続きの飢饉であったため、武田信玄(当時は晴信)はなんとかして領民を救済するためにも、
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志賀城の合戦 武田信玄 VS 笠原清繁(NHK大河『風林火山』たけし軍団のダンカン)
年代 天文16年(1547)7月24日
場所 長野県佐久市志賀
領土拡大を目指し、信州へと侵攻した武田晴信(後の信玄)。 1547年に佐久の志賀城攻略しようと7月に包囲をした。 志賀城は堅城で、城主の笠原清繁も徹底抗戦の構えを見せていた。
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上田原の戦い 村上義清VS武田信玄
年代 天文17年(1548年) 2月14日
場所 長野県上田市上田原
北信の雄、村上義清が武田信玄をコテンパンにやっつけた戦いで有名。 ほとんど負け無しの武田信玄であったが、村上義清には2度も敗北を喫している。
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勝弦峠の合戦(塩尻峠の合戦) 武田晴信 VS 小笠原長時
年代 天文17年(1548)7月19日
場所 長野県岡谷市塩嶺
1548年の2月、武田晴信(後の信玄)は村上義清に上田原で大敗北を喫した。 武田氏の信州への侵攻が一時頓挫したとみて、反武田連合(村上氏、小笠原氏などの信州の豪族)が武田を信州から追い出そうと立ち上がった。 これがだいたい7月頃であった。
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戸石城の合戦 村上義清 VS 武田信玄
年代 天文19年(1550)9月9日〜10月1日
場所 長野県上田市上野字城山
上田原の合戦(1548)で武田氏筆頭家老、ソニー千葉(板垣信方)とゴリさん(甘利虎泰)を失った武田信玄であったが、信州攻略をあきらめてはいなかった
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※戸石城の合戦に関しては当サイトでも戸石城の縄張図も掲載し、検証しております。
川中島の合戦 第一回〜三回まで 武田信玄 VS 上杉謙信
年代 天文22年〜弘治3年(1553年〜1557年)
場所 長野県小島田町
上杉謙信(ガクト)と武田信玄の合戦で有名なのは第四回の川中島の合戦だが、まずは1回目〜3回目まで。 発端は、村上義清が本城である”葛尾城”
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川中島の合戦 第4,5回 武田信玄 VS 上杉謙信
年代 永禄4年〜7年(1561〜1564)
場所 長野県小島田町
川中島の合戦の中で一番の激戦となったのが4回目であった。 第三回の合戦よりすでに4年近くたっている。 この間、今川義元が桶狭間で討死(1560年)という大きな事件
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松山城の合戦 武田信玄・北条氏康 VS 上杉憲勝
年代 永禄6年(1563年)2月14日
場所 埼玉県比企郡吉見町
1561年、上杉謙信の関東小田原城攻めが終わって、それまで上杉になびいていた者たちが次々と北条方に寝返っていった中、松山城の上杉憲勝と岩槻城の太田資正は上杉方のままだった。
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箕輪城の合戦 武田信玄VS長野業盛(なりもり)
年代 永禄9年(1566)9月29日
場所 群馬県群馬郡箕郷町箕輪
長野氏の二代目、長野業正が1561年の秋に老衰で亡くなった後、武田信玄は北関東へ攻略にとりかかり、長野氏は孤立無援の状態に陥った。
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今川館の合戦 武田信玄 VS 今川氏真
年代 永禄11年(1568)12月
場所 静岡県静岡市城内、屋形町
今川領の侵略を考えていた武田信玄が徳川家康と密約をかわしさつた峠より侵攻。今川氏真は陣頭に立って、防戦するもあえなく敗走。賤機山城へ逃げようとするもすでに武田方に占拠
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三増峠の合戦 武田信玄 VS 北条氏照
年代 永禄12年(1569)10月6日
場所 神奈川県愛甲郡愛川町三増、津久井郡津久井町根小屋
武田信玄が今川領であった駿河に侵攻したことにより、長年続いてきた相甲駿の三国同盟が破綻。あらたにずっと仲が悪かった上杉謙信と北条氏康は同盟を結んだ。
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※三増峠の合戦直前の信玄による小田原城の合戦に関しては当サイトでも小田原城の縄張図も掲載し、若干検証しております。
蒲原城の合戦 武田信玄・勝頼 VS 北条綱重
年代 永禄12年(1569)12月6日
場所 静岡県庵原郡蒲原町蒲原
駿河の攻略を目指し、武田信玄は1568年から攻撃を開始するが、駿河の国をほしいのは武田だけではなく、武蔵、相模の北条、西の遠江の徳川も欲しがった。
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花沢城の合戦 武田信玄 VS 大原資良
年代 元亀元年(1570)1月4日〜8日
場所 静岡県焼津市高崎城山
武田信玄が花沢城と包囲したのは1月4日のことだった。 城将は大原資良で、今川氏真が駿河から伊豆へと移ってからも、今川の配下として花沢城で頑張っていた。
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三方ヶ原の合戦 武田信玄 VS 徳川家康
年代 元亀3年(1572)12月22日
場所 静岡県浜松市三方ヶ原
武田信玄の合戦の中で有名な戦いで、徳川家康が唯一完敗した合戦。 このころ武田信玄はすでに病魔におかされていたようで、躑躅ヶ崎館の出発も10月1日
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※三方ヶ原の合戦に関しては当サイトでも、浜松城の縄張も掲載し検証しております。
野田城の合戦 武田信玄 VS 菅沼定盈
年代 天正元年(1573) 1月〜2月
場所 愛知県新城市野田
12月、三方ヶ原で徳川家康をやぶって野田城の攻略にとりかかる武田信玄。 篭城側は400の兵しかいなかったが、鉄砲が配備されており、攻略にてこづっていたが、
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高天神城の合戦 武田勝頼 VS 小笠原長忠
年代 天正2年(1574)5月12日〜6月17日
場所 静岡県小笠原郡大東町土方
元々は今川家の支城であった高天神城だが義元が討死し、1568年に武田信玄と呼応して家康が今川家を攻めた折に、特に争うこともなく高天神城は徳川氏の支城となった。
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※高天神城攻防戦に関しては当サイトでも高天神城の縄張を掲載し検証しております。
長篠の合戦 織田信長・徳川家康 VS 武田勝頼
年代 天正3年(1575)4月〜5月21日
場所 愛知県南設楽郡鳳来町、新城市
歴史が苦手な人でも知っている合戦。また最近では定説になっていた、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲3000丁そして3段撃ちであるが、実際には1000丁から1500丁ぐらいで、3段撃ちもどうやら違うといわれ始めている。
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※長篠の合戦に関しては当サイトでも検証しております。
高天神城の合戦 徳川家康 VS 岡部真幸(武田方)
年代 天正8年(1580)10月22日〜天正9年3月22日
場所 静岡県小笠原郡大東町土方
長篠合戦で武田勝頼は大敗を喫し、遠江の武田領は徳川に奪われていったが、高天神城は奪うことが出来なかった。
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※高天神城攻防戦に関しては当サイトでも高天神城の縄張を掲載し検証しております。
田野の合戦 武田勝頼 VS 滝川一益
年代 天正10年(1582)3月11日
場所 山梨県東山梨郡大和村田野
長篠の合戦以降、織田、徳川軍に押されっぱなしの勝頼であったが、背後の上杉、北条と同盟を結んでいたから、なんとか持ち堪えていた。ところが上杉謙信が病死し
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参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |