武田軍と徳川軍の進軍経路と布陣予想図
地図の上右のあたりの二俣城を攻略後、武田軍は南下(赤線矢印)。浜松城へと向かうと思われたたが、武田軍は北西に向きを変える。
このとき、『検証・三方ケ原合戦 』によれば、武田軍は大軍を擁しており、反転に際し3隊に分けて1隊を浜松城近くで反転、信玄本隊は後方で反転、もう1隊はその中付近で反転させたのでは?という説が記載。
一方の徳川軍は浜松城より南下する武田軍に備えながら北上。背後を突こうとしたのか?
三方ヶ原の合戦 武田信玄 VS 徳川家康
年代 元亀3年(1572)12月22日
場所 静岡県浜松市三方ヶ原
武田信玄の合戦の中で有名な戦いで、徳川家康が唯一完敗した合戦。 このころ武田信玄はすでに病魔におかされていたようで、躑躅ヶ崎館の出発も10月1日
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両軍の布陣の配置については詳細な記録の残っている史料がないのが実情のようで、下の写真はあくまで予想です。武田軍の先鋒は小山田信茂、徳川軍は石川隊か酒井隊っぽいようです。
石川、酒井、本多の隊が小山田隊を突き崩し、さらに山県隊も崩されそうになったところで後方の勝頼隊や内藤隊さらに武田遊軍も襲い掛かり、徳川勢は総崩れとなった模様。
史料でほぼ確実なのは武田軍が魚鱗の陣、徳川軍が鶴翼の陣を敷いていたこと。
拡大画像は⇒三方ヶ原合戦の布陣図3D
[三方ヶ原合戦後]
野田城の合戦 武田信玄 VS 菅沼定盈
年代 天正元年(1573) 1月〜2月
場所 愛知県新城市野田
12月、三方ヶ原で徳川家康をやぶって野田城の攻略にとりかかる武田信玄。 篭城側は400の兵しかいなかったが、鉄砲が配備されており、攻略にてこづっていたが、
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[関連ページ]
三方ヶ原の合戦(当サイト内)※浜松城の縄張予想図も掲載。
『 戦国時代の合戦データベース』
このとき、『検証・三方ケ原合戦 』によれば、武田軍は大軍を擁しており、反転に際し3隊に分けて1隊を浜松城近くで反転、信玄本隊は後方で反転、もう1隊はその中付近で反転させたのでは?という説が記載。
一方の徳川軍は浜松城より南下する武田軍に備えながら北上。背後を突こうとしたのか?
三方ヶ原の合戦 武田信玄 VS 徳川家康
年代 元亀3年(1572)12月22日
場所 静岡県浜松市三方ヶ原
武田信玄の合戦の中で有名な戦いで、徳川家康が唯一完敗した合戦。 このころ武田信玄はすでに病魔におかされていたようで、躑躅ヶ崎館の出発も10月1日
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両軍の布陣の配置については詳細な記録の残っている史料がないのが実情のようで、下の写真はあくまで予想です。武田軍の先鋒は小山田信茂、徳川軍は石川隊か酒井隊っぽいようです。
石川、酒井、本多の隊が小山田隊を突き崩し、さらに山県隊も崩されそうになったところで後方の勝頼隊や内藤隊さらに武田遊軍も襲い掛かり、徳川勢は総崩れとなった模様。
史料でほぼ確実なのは武田軍が魚鱗の陣、徳川軍が鶴翼の陣を敷いていたこと。
拡大画像は⇒三方ヶ原合戦の布陣図3D
[三方ヶ原合戦後]
野田城の合戦 武田信玄 VS 菅沼定盈
年代 天正元年(1573) 1月〜2月
場所 愛知県新城市野田
12月、三方ヶ原で徳川家康をやぶって野田城の攻略にとりかかる武田信玄。 篭城側は400の兵しかいなかったが、鉄砲が配備されており、攻略にてこづっていたが、
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三方ヶ原の合戦(当サイト内)※浜松城の縄張予想図も掲載。
『 戦国時代の合戦データベース』
参考書籍
百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。 オンライン書店【ビーケーワン】
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┗花のネットショッピング珍遊記
⇒百姓から見た戦国大名 (ちくま新書) |