布陣図を作り終えて
織田軍 | 約3000人 | 勝者 |
今川軍 | 約15000人以下? | 敗者 |
今川義元は退却の途中であった?
当サイトにおいても桶狭間の合戦について検証し、自分なりの結論を一度出してはいるのですが、正直、納得出来ない部分があったのです。
信長が圧倒的劣勢にて、今川軍に突撃出来た理由については、今川軍の侵略目的が上洛や尾張平定でなく、つまり今川軍は大高城、鳴海城の解放のみを目的とし、それを信長自信も承知していたなら、あの大胆な突撃も可能というところまでは良いのですが、そうであったとしても信長を勝たせて、ましてや義元の首まで取らせるとなると、通説(迂回説や正面突撃説)のように今川軍が攻略進軍途中として行動している場合、下世話な書き方をすると、今川軍に”間抜け”なことか、信長軍に突拍子な事をさせないと無理が生じるのです。それで当サイトで信長は鉄砲が好きということで、それを活用し、混乱させて今川本隊が壊滅したというちょっとチープな結論を出してしまったのですが、仮にそうであったとしても、今川軍が攻略途中であるということは本隊以外の軍も展開しているので、余程の運がないとこれは不可能であるし、その運がなければ逆に信長の方が壊滅する危険があるのです。
となると、信長は生還率の低い、かなりの危険を冒して突撃しなければなりません。当サイトで検証したように今川軍の攻略目的が大高城、鳴海城の解放のみであるとすると、そのためにそこまでの危険を冒すというのは普通であればまずあり得ないんですよね・・・。
もちろんこれが通説のように今川軍の上洛や尾張平定であったとしても、その危険度は変わりません。
織田軍に勝つ見込みがほぼゼロなんですよ(笑)篭城した方がよかったかも・・。 しかし今川軍は上杉謙信の小田原城攻撃の様に、そのまま清洲城へ雪崩れ込んでおらず、それは今川軍に尾張を平らげるほどの兵力やそれを実行するための体勢は整っていなかったということかと思います。
以前の当サイトにおける検証⇒桶狭間の合戦
それで調べていくうちに、今川方は大高城の救援のみが目的で、その任を終え退却途中であり、今川軍の全兵力は2万にもならず多くても1万5千程度として信長公記等の史料と合わせて行くと、結構良い筋書きが出来ます(笑)
簡潔にまとめますが、今川軍は総兵力約1万5千にて大高城及びその周辺へ侵入。そして翌日(19日)早朝、大高城を包囲していた丸根砦、鷲津砦を陥落、この様子を義元本隊は漆山に布陣し観戦。これは丸根、鷲津両砦を攻撃している松平元康、朝比奈備中守、井伊信濃守等の防衛の役も果たしています。防衛というのは織田軍の両砦への後詰の警戒です。
しかしながらこの時点で信長は現れません。そこで今川軍は国境付近もある程度の安全を確保出来たものとして全軍撤退を開始させます。松平元康は大高城へ入り、鵜殿長照は自分の所領、三河へと帰国します。
今川軍が撤退を始めている頃、佐々隼人正、千秋四郎らはそれを見て攻撃を加えます。本当なら信長と合流する予定であったと思います。 信長は自軍の砦が攻撃された以上、それをただ黙って見過ごす訳にはいかなかったのでしょう。
しかし信長本隊が到着しなかったので、佐々隼人正、千秋四郎らは完全撤退される前にという気持ちから攻撃しますが、兵力差もあって二人共討死します。もちろん兵力差といっても今川軍の撤退を擁護する殿軍なので1千人〜1千5百人程度です。 今川義元はその頃、もう少し東の山にいます。
佐々隼人正、千秋四郎ら討ち取った後、今川義元は桶狭間山に到着し休息をとります。戦場となった漆山からも離れ(3キロから4キロ近く)、また敵将も討ち取ったことでご機嫌で、謡も披露しちゃいます(笑)この時点で信長が攻めて来るとは全く思っていなかったと思います。
信長はこのとき善照寺砦付近におり、佐々隼人正、千秋四郎等の負け戦を見ていて、軍勢が整うと中島砦へと進軍していきます。
すでに撤退を開始している今川軍に挑もうとした理由としては、鷲津砦、丸根砦、佐々、千秋等将兵を失っていることの汚名挽回・・一矢報いらねればというところであろうか。ただ善照寺砦に到着した時点で信長はやる気マンマンだったようです。信長手勢の士気が思い切り高かったこともあるのでしょう。また思った以上に今川軍が喧伝する兵力はいないということも察知したかも知れません。
そして・・・続きは下のフラッシュにて(笑)
布陣 (クリック)
※小さな長方形は軍勢約500人 横約45メートル、縦約35メートル。右の縮小画像にカーソルをあてると、画像の切替がストップします。
布陣
桶狭間合戦の布陣図に関しては、兵数や陣形云々というより地形、天候、タイミングが影響した合戦であるため、それをうまく伝えるためにどうすればと考え作りましたが、両軍の位置がどのようであったかを分かるようにするため、主に上空からの目線の3DCG画像を掲載しています。
実際はこの合戦の時期は雨季で草木が青々と生い茂っていて、特に織田軍が桶狭間山に接近していたとき、本陣を護衛する前衛(松井隊)は始め目視できていたものの、信長公記が伝えている豪雨で視界が遮られた事により、織田軍に後方(大将ヶ根付近)へも回られる結果となったと思われます。
もちろん前衛(松井隊)はすぐに本陣に連絡を取ろうとしましたが間に合わず、信長率いる手勢に武路付近で義元本陣を発見され、大休止中(鎧を外し武器も置いて休息)を急襲されることになって、数で織田軍を上回っていたものの迎撃体勢を取れないまま、義元は討ち取られた・・ということと思います。
これが通説のように進軍途中であれば、このようなことはなかったと思います。その説明は長くなるので省きます。 大高城の救援が出来、さらに織田の先鋒(佐々・千秋)も打ち破り、信長本隊が現れなかった事で退却を決めます。この際、義元本隊は一戦もしていないことから殿となり、瀬名隊や朝比奈隊、鵜殿隊は先に帰還します。
兵数は義元本隊を約5千とし、信長本隊は約2千としました。まともに戦えば今川軍が勝つのですが、戦場となった大高城周辺と漆山周辺から2.5キロ近く離れており、義元にとっては戦は終わっていたんでしょう。もちろん高根山に約1千5百程度の護衛隊に警戒はさせています。
ところが信長は反対でなんとか一戦交えようとして高根山まで進行します(鎌研付近)この時に豪雨が来て、上に書いたような結果になるわけです。
ちなみに通説に星崎城に葛山隊(約5000人)が布陣させられていますが、実際には桶狭間付近にいたとは考えられませんので、布陣させていません。理由は史料に葛山隊の活躍した記述がみられないからです。