布陣図を作り終えて
武田軍 | 約27000人 | 勝者 |
織田徳川連合軍 | 約11000人 | 敗者 |
なぜ三方ヶ原が合戦場となったのか
三方ヶ原の合戦は有名であるものの、実はまだまだ不確定なことが多い。特に合戦時、両陣営、誰がどこに布陣したのか?何時ごろに開戦したのか?どこで合戦が始まったのか?ははっきりとしていない。 よく言われているのは祝田の坂上付近で夕方に開戦し、武田方は魚鱗、徳川方は鶴翼の陣で戦ったということであるが、これらも決して当事者の記録によるものではなく、後世の人による推察等であるため断定はできない。
一応当サイトでもこの合戦について検証をしています。
⇒三方(味方)ヶ原の合戦 〜1572年
さて兵力差から徳川軍の勝機はあまりないと言えるし、事実、徳川軍は惨敗し、しばらくの間、まともな野戦能力を失うこととなる。
通説では武田軍は下った後、坂をまた駆け上げって徳川軍と対峙したこととしているが、本当にそうであろうか?そして家康は下った武田軍を上から攻撃することを狙ったのか?
通説の問題点をあげると、まず武田軍が一群となって祝田の坂を降りるという可能性は低いという点。台地を降りる口は限定されてるとはいえ、いくつかあったはず。祝田の坂のみに徳川軍が集中しても、さほどの効果は得られないのでは?ということと、台地に深入りすることは武田軍によって包囲される危険があるという点である。こうなると台地を降りる口が限定されることが徳川軍に不利に働くのだ。
武田軍があえて誘い出すため、一つの下り口(祝田)で下ったとも考えられなくないが、ちょっと幼稚な手で現実味が薄い気がする。武田軍は徳川軍を注意しながら浜松周辺の村々で乱取りや城を攻略に向かい、家康が来なければ更に違うところへ向かう。これは家康にとって状況の悪化を意味していて、部下の反感も増えることから出撃をせざる終えないはずなのだ。
これらことからそうなる前に出撃し、そして徳川軍はできるだけ三方ヶ原の台地で退却路をしっかり確保できる地点で合戦をしたのではと思う。勝ち目は少ないが、土地のもののために生死をかけて戦ったということが家康にとって結構重要だったのではなかろうか? この合戦の結果はご存知の通り、家康は惨敗を喫しおそらく予想以上の負け方ではあったと思うが、重要な家臣は一人も戦死することなかった。
下の3D布陣図は上のことを踏まえて作成しました。信玄の本陣は都田丸山に置きました。北方で安全であるということ、見晴らしが良いということ、『浜松御在城記』にその記述が見られるためです。
当時の浜松城
3D布陣図に当時の浜松城を掲載していますが、推定図を元に想像で作成しました。google skechupにてサイズをあわせて作りました。これをある程度作って思ったのは、三方ヶ原の合戦当時徳川軍は援軍をあわせ1万1千とありましたが、この全軍が当時の浜松城に篭城するのはちょっとキツイのでは?ということです。おそらく当時の浜松城の防衛にベストな軍勢は4000から多くても5000程度では?と思います。なので、残りの半分の軍勢は城の周辺に砦などを築いて野営していたのでしょう。
※小さな長方形は軍勢約500人 横約45メートル、縦約35メートル。右の縮小画像にカーソルをあてると、画像の切替がストップします。